□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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昨年から撮影中にガクッと骨を折ってしまった。
痛くなかったから打ち身かなと軽く思ってシップだけ
あくる日痛くて歩けない病院で骨折だと一ヶ月がりがりに巻かれ動けなく家の中も車椅子移動
一ヵ月後開放しかし松葉杖の移動
これではどうもならないと頑張りました
どうにか二ヶ月目に平地なら軽く歩ける状態に
頑張らないと撮影いけないし必死でリハビリ頑張りました
まだ正座とか無理ですが桜が咲くころはできるでしょう~~との、見解らしい。
頑張ろう~~

そんなわけで去年9月終わりからの写真が掲載しておりません
片栗が咲くころまた頑張り始めます
それから掲載また今までどおりごらんになってくださいね。

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テーマ:自然の写真 - ジャンル:写真

■そんな時代でした~

東海道[鈴鹿の関]は、美濃[不破の関]や越前[愛発の関]と共に古代三関の一つです。

●ここ鈴鹿の関宿にあだ”討ちを成し遂げた女性の話”今も墓が残る

西は九州、留米藩の剣術指南役だった小万の父、牧藤左衛門は遺恨によって同輩の小林軍太夫に惨殺されます。
そのころ身重の妻は夫の仇を討とうと敵を追って鈴鹿峠を越えます。
★この時代あだ討ちを課されると出かけなければいけない時代、じっと我慢して藩で暮らせなかった時代つらかったろ~~。
峠を越えるといってもあのころはただひたすら歩くだけのつらいあだ討ちの旅です身重の妻にはどれほど過酷なたびとなったか、九州から山超え谷超えの長旅相当つかれもたまるころです。
★途中体調も悪くなり旅の途中で挫折することも数回あったろうに今にして思えば身重でよくがんばりましたよね~~。
今の九州から中部地区の三重県鈴鹿の関宿までどれだけかかったのだろうか一歩一歩歩くのだからその苦労また身重の体を抱えての旅さぞつらく重苦しかったことだろうと思います。
そうしてたどり着いた関・・・・・・・・・・・・・・・・。

やっとの思いでたどり着いた関宿、地蔵院前で行き倒れになり、旅籠『山田屋』の主人(現在の店・会津屋です)・山田屋吉右衛門夫婦に助けられます。
そこで、妻は女児(小万)を出産しますが産後のひだちも悪く赤子を残し亡くなります。

生まれた女児は山田屋夫婦の子として育てられ小万となずけられます。
★小万が養母から敵討ちの話を聞き決心します。
また養母たちも小万を三年間剣術を習いに行かせます、小万に敵をとらせようと思いました。

15歳のときに実母の遺言を伝え聞き、亡き母の志を継いで亡父の仇討ちを決心します。
3年間武術の修行に励んだ小万は、天明3年(1783年)8月、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇を討ち、見事に本懐を遂げました。
その後も山田屋にとどまり養父母に使えましたが、享和3年(1803年)に36歳で病死しました。

その小万の墓が現在も福蔵寺にあり、手厚く葬られています。
親の仇を見事討ち果たし養母夫婦に考を尽くしたこの話は関の有名なあだ討ち話として今も伝えられています。


▼現在の会津屋(山田屋)今は食事何処として蕎麦・山菜おこわなどを販売しています。
店は敵討ちの話のとおり地蔵堂のまん前、今も繁盛しておりました。


■小万の養母の家:昔は旅籠いま食事何処会津屋です。
地蔵堂の前でお店も繁盛しています。

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昔ながらの作り方をかたくなに守り今もその味を伝えています。
実際に撮影に行っていただきましたおいしかったです。
このおこわを、小万もつくりまた食べたのだろうと思うと小万のあだ討ちの話も身につまされます。

九州は、博多藩から中部現在の三重県関市までくることとなる、人の定めとはなんとむなしくあり後世幸せな暮らしをする、小万と有人間性がもたらした定めと幸せな人生悲喜こもごもだなと・・・・・・・・。



▼小万の養母の家の前にある西の追分と東の追分の中央にある地蔵堂。
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▼地蔵堂の中にある金突き堂重要文化財に指定されております
赤い朱塗りが目に新しく見事です。
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▼小万の墓がある福蔵寺
福蔵寺は天台真生盛宗の寺で清浄山福蔵寺といい、天正11(1583)年、本能寺の変の後、織田信孝は父信長の菩提を弔うため、大塚長政に寺院建立を命じました。
長政は比叡山から長円法師を招き、神戸家に縁の有る者の助力を得て福蔵寺を建立しました。
この直後、信孝が自害したためその首を福蔵寺に納め信孝の菩提寺としました。
この後、徳川家康が関宿に御茶屋御殿を築造するにあたり、福蔵寺を西側に移転し、その跡地に御殿を建てたと伝えられます。


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▼小万の供養碑です
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▼この仇討はあっと云う間に全国に喧伝された。

有名な鈴鹿馬子唄にも小万のことが記載されています。

  「坂は照る照る鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る 
  「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょというた
  「手綱片手の浮雲ぐらし   馬の鼻唄通り雨
  「与作思えば照る日も曇る  関の小万の涙雨
  「関の小万が亀山通い    月に雪駄が二十五足
  「関の小万の米かす音は   一里聞こえて二里ひびく
  「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら
  「昔恋しい鈴鹿を越えりゃ  関の小万の声がする


テーマ:何気ない日常の写真 - ジャンル:写真

旅人が行き交う町並み、そこで日々繰り広げたであろう旅籠の生業・・・・。

耐えることなく日々行きかう人に暫しの宿、旅する人にとってはどれだけ旅籠の明かりが恋しいものであったのか遠い道のりをつかれきった足を引きずり歩く人には安らぎの、それ以上の明かりに見えたに違いない。

昔は今のようにタクシーなどない時代ただひたすら歩く歩く歩く、辛い旅であったにちがいないだろう。

◎この歴史資料館になっている ”旅籠:玉屋” は当時から関に止まるなら玉屋とほか二件が特に有名だったと歴史書に記載がありました。
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◎旅籠の入り口の土間すぐ横に二階へあがる階段があり土間の後ろには帳場があったようです。
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◎ここで、この写真に面白い実話。
私はめがねをしていないとはっきりとゆうか見にくいのですが、この玄関から建物中ほどの薄暗い展示スペースの帳場にいる男の方を見かけたのでこんにちわと声をかけてしまった。
じっくり見てあ!!人形だ。
そのときはほんとに恥ずかしく一瞬周囲を見渡しました。
でもほの薄暗いと本と間違います実物と・・・・・・多分、挨拶した人ほかにもいたかも。


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帳場の後ろの部屋は家族の部屋らしくなっていたようです。
裏側の中庭をはさみ家族用の部屋の割り振りがあったのをみかけたことがある。


◎ここ関宿の会津屋は昔旅籠をやっていたとお聞きしました。
今は食事何処、蕎麦やおこわを食べることができます。
その名残に屋根の上のうだつに会津屋と書かれた漆喰壁昔の繁栄を物語ります。
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この会津屋は西の追分と東の追分の中央にあり前に道路を挟んで有名な地蔵堂があり、今もそうですが当時も旅人がたちよるメッカだったと思います。
今も地蔵堂には観光客が耐えないですね。


★では、旅籠とはどんな宿なのでしょうかここでは各街道にあった一般的庶民が泊まる宿について記載してみます。
(浮世絵を参考にお話させていただきます)

「はたご」という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠の事でした。
時代劇などを見ているとしっかりとした木の策に馬をつないで水を飲ませたりえさをやっている映像をみることがあります。それが、旅人の食糧等を入れる器の意味にさらに食事を提供する宿屋を旅籠とさすようになえいました。
江戸時代には宿場ごとに多くの旅籠があって泊まり客で賑わいました。

時代が進み蒸気機関車が走るころになる明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになり、現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。

しかし、旧街道を旅するときは旅籠ほどそれに似つかわしい宿はないと思います。
今も昔の宿場撥に時折本当に営業している旅籠があります、現代の雑踏を忘れこうした昔を振り返ることができるそんな旅籠に一度とまってみたいと思います。
ふと、歴史を振り返るきっかけになったり懐かしいものに触れ合えたりほっとするたびになりそうですね。

ほんとうに歴史的に価値のある文化財がたんなる旧跡としてあるのではなく、現在でも宿泊できる生きている形で存在しているのはとても大切なことだと思います。
旧街道を巡る人だけでなく、日本の文化を愛する人にはぜひ泊まってもらいたいと考えています。


江戸時代の庶民の宿には、朝夕の食事を提供する旅籠と、宿泊客が薪代を払って自炊する木賃宿がありました。
江戸初期には木賃宿が主流で、旅籠が一般化するのは、江戸中期頃からといわれています。

■一般的な旅籠
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江戸の初期旅に出るといっても本当に命をかけて旅をするものでした。
いつ盗賊に襲われるかわからないいつ病で息耐えるかわからないそんな状態でただひたすら目的地まで山山を越え歩いたのですからどれだけ大変だったか容易に想像できます。


当時は現在のように宿泊を予約することがなかったので、宿場の旅籠は客を確保するために、各種の講(寺社への参拝などの目的で作られた団体)の定宿になるように努力し、また路上で旅人に呼びかける客引きが盛んでした。

映画で見かける夕刻の旅籠宿をいっぱいにしようと女中が見せの前で客の旅人を捕まえる画像みかけますね。
あんな時代だったのでしょう。


旅籠の前の路上で、客引きの女(留女)が旅人を強引に引き止めています。歌川広重の「東海道五十三次」の御油の絵にも同様の光景が見られます。
夕刻はどこの宿場でも見られた光景です。
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はたごに入ると一番に女中が洗い桶を持ってきます。
たらいで足をすすぐ客と、客の荷物を持つ女中がいて面倒をみてくれます。
それから部屋に案内してくれて、荷物の柳行李(やなぎごうり)と風呂敷包みを座敷に運びます。きやはん)も洗い、座敷へ通ると女中に茶を持ってこさせます。
旅籠での第一は足を洗うことでした。

今では道路事情もよく、まず歩いても足が汚れるなどそんなことはありえないですがこの当時わらじなのですから当然泥もつけば汚れもします、どこでもまず家に上がるのは、洗い桶に水を汲むことから始まるのです。


一般の客が泊まる旅籠の宿での夕食を見ると、酒の肴に白板かまぼこ(白い上等のかまぼこ)、漬しょうが、車海老、紫蘇の実、赤みその吸物などがあげられています。
この場合の食事はまだ品数がありだされたものも結構よい食事と言えそうです。
一般はご飯と一膳の味噌汁、それに小魚と漬物ちょっとした煮物が魚の代わりにつくとかのそんな質素なものでした。

そりゃ~~金持ちが頼めばまた贅沢な食事もでたじだいでしょうね。

一般には大体、一汁二菜程度のものと思われます。
旅籠の食事は宿泊代の上中下によって、それなりの料理を出していたようです。

お金を切り詰めて旅をする庶民にとって旅籠では実に切り詰めないといけなかったのです。
野宿以外で布団で眠れるそれだけでありがたい時代でした。


■こんな話が伝わっています。

猿廻しで生計をたてている兄弟この食事の場面も随分質素に見えます
足の低い膳(足付折敷)の上には箸と飯椀とおかずの皿があり、膳の右の浅い鉢には長い箸が見えますから取り分け用のおかずのようです。
傍には大きな飯櫃(めしびつ)がありますが、飯櫃は、めしつぎ、おひつ、おはちなどとも呼ばれ、自動炊飯器の出現以前には、炊いたご飯はすぐこのおはちに移し、食生活の必需品でした。

庶民の日常の食事について『守貞謾稿』(1853)にはおよそ次のようにあります。
「江戸では朝に飯を炊いて味噌汁とともに食べ、昼は冷飯で野菜か魚肉などの一皿を添え、夕飯は茶漬けに香の物を添える。京坂では昼に飯を炊き、煮物あるいは魚類または味噌汁など二、三種を添え、朝飯と夕飯には冷飯に茶、香の物を添える。」これが庶民の普通の食事のようです。
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◎庶民の食事善
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見てのとおりあまり贅沢とはいいがたいですね。
これがまた豪商などになると、大臣並なのでしょうが、一般市民はささやかなものですね。

膳の左にある土瓶は、現在でも見馴れたもので、土瓶は蔓(つる)、急須は把手(とって)の違いはありますが、両方とも煎茶を入れて適温の湯を加え、茶汁を茶碗に注ぐ淹(い)れ方です。
江戸時代には、やかんや土瓶を火にかけて湯をわかし、その中へ煎茶を入れて煮出す方法も行われていました。
絵には薪が燃えている火鉢がありますから、土瓶で煮出したお茶でしょうか。

昔の品物も忘れられている時勢ですがここに出てくる土瓶はいまもありますね。
まったけの土瓶蒸しに使われたりなじみがあるとおもいます。

ここにも少し記載してありますが ”おひつ” とは窯で一度炊いたご飯を木の桶に入れておくものです。
まず今の若者ではまったく見たこともないと思います、最近は炊飯器が主流で保存間でしておりますからわからないですね。
よく観光にある古民家などの施設ではあえて ”おひつ” ”めしびつ”などを作り方を教えてくれて実演をしたりしています。
昔をしのぶにはよい題材になるとおもいます。

現代の生活と似た一面もありますが物資の少ない時代者を大切につかっていたのでしょう。
何しろ当時はあたり和えの一汁一菜これだけでも食べれるのは幸せだったのだろうと推測します。

当時の旅人は宿でおにぎりを作ってもらったりすることもあるそうです。
いったん宿を出ると次の宿まで順調にいかれればいいのですが何があるかわからない、そうなるとやはり水とおにぎりは命の元なのです。
それと味噌、よく昔から戦いに出向く武士が味噌や塩を持っていったと聞きます。・
体のため健康に欠かせない成分だったのでしょう。

ここ関宿も東西のほぼ真ん中に位置し旅人が往来する要でもありましたから始終旅の泊り客があっただろうと推定します。





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鈴鹿の関宿といわれたのは・・・・・・・どうしてなのか!!

徳川家康による宿駅制度の実施により、慶長六年(1601)、東海道の四十七番目の宿駅となったことにより、それ以後重要な拠点として東西交通を担ってきた。

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現在の町並みの基本構造は、天正年間(1573〜92)に関盛信が付近の道路を改修し、 新所と木崎の間に町(中町)をとり立ててできたものと考えられています。
この中町の町立てにより町並みは東にのび、現在のような規模になったのです。

▲市制資料館からの引用写真
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▲関宿本陣からの大名の旅立ち浮世絵より引用です
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上記引用写真から見て取れるのは、東西交通の便がよいことと、人の流れが多く重要な幹線であったことが伺える西から東へ東から西への要所として要的役割も果たしていたと推察します。


慶長6年(1601)の徳川家康の宿駅制度化により、関宿も東海道の正式な宿駅として整備され、 伊勢別街道及び大和街道との分岐点という立地条件により繁栄していきました。

天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、家数632戸、人口1,942人、 本陣2、脇本陣2、旅籠屋42となっており、東海道屈指の宿場であったことを物語っています。

また、宿場には多くの人々が密集して生活していたため、ひとたび火事となると大火となって大きな被害をだしました。
町にはこうした大火に備え、防火のための施設も設けられていました。
宿場の各所にあった「火除松林」「土居」などは、防火帯として設けられたものです。
また、「水溜」は用水池や防火用水として設けられたものと考えられます。
現在も随所にこの、「水溜」が設置されています。

当時の町屋の特徴としては
部屋は表からミセ・ナカノマ・オクノマ(ザシキ)と呼ばれますが、 四室になる場合はオクノマからブツマが独立して1部屋となります。
シモミセは家族の居室・帳場などとして使われ、旅籠屋に多く見られます。

ミセの上には「厨子(つし)」という低い二階があります。
現在も中二階といった形で残っています。

現在こうした中二階を見ることがあまりない私たちには、どこか風情があり住んでみたいそんな感じのとらわれるものでした。

旅籠などを除けば二階が座敷になることは少なく、物置として薪・柴などを蓄えておく場所でした。
明治後期から大正以降の町屋では、二階が発達して座敷を設ける例が一般的になります。

現在も随所に昔ながらの長屋形式で残る古い民家にはたいてい中二階があるようです。



■新所(しんじょ)の町並み
新所は関宿の西側に位置します。
地蔵院の門前となる新所東側は、中町と一体の家並みを形成し、中二階の町家が多く、主屋の横に庭を設けて高塀をめぐらす質の高い町家もみられます。

一方新所西側は、その大半が小規模な平屋で仕舞屋風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みです。新所の特色としては各町家の格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が比較的よく残っています。

■北裏(きたうら)の町並み
関宿には1社・10ヶ寺がありますが、地蔵院を除きすべて街道の北側にあります。
街道から北側に入る小路の奥には、各寺院の門や本堂の屋根をみることができます。

北裏は中町から木崎の町並みの北側に位置し、寺院や神社の境内がならんでいます。街道からかけ離れた落ち着いたたたずまいで、樹木などの自然も多くあります。

■ 中町(なかまち)の町並み
中町は関宿の中央に位置し、西から一番町から六番町までにわかれています。本陣・脇本陣・問屋などがおかれ、主だった旅籠が集中した宿場の中心で、特色ある町屋が残っています。町家は比較的建ちの高い大規模なものが多く、二階壁面も塗籠めて虫籠窓をあけたり、全面に手摺りを設けて開放するものが多く、意匠的により華やかです。

中町から西を見ると、美しい家並みとともに、地蔵院本堂の屋根と鈴鹿の山々が正面に見えます。関宿の最も美しい町並み景観のひとつです。


■木崎(こざき)の町並み
木崎は関宿の東側に位置します。町家は平屋ないし中二階の比較的建ちの低いものが多く、 二階壁面は真壁にしたものが普通です。
中町に比べその意匠はより簡素ですが、伝統的な町並み景観がよく維持されています。




★本会は宿場の中ほどに位置する寺 "地蔵院" について詳しく調べてみました。

関町関宿は細長い地形をしており西の追分東の追分とに分かれていて約1.8キロの長さにまちっが栄えていたといわれる。
その西と東の追分の中央辺りに地蔵院がある。
この寺にはいろいろな古事もあり面白いお話しが聞けた。
天井には、仏典を題材に元禄時代の絵師狩野永敬が、十年の歳月をかけて描いた一七四枚の天井画が 描かれています。



■地蔵院【国重要文化財】


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関地蔵院は、関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 、という俗謡で名高い、関地蔵が祀られている寺である 天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられる関宿きっての名刹です。
関宿のほぼ中央に位置し、旧東海道に面して開放的な境内をもちます。
近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集めました。 境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています。


天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。
この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われています。
境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。


◎地蔵堂に伝わる古い話
●関の地蔵と一休和尚
関宿にある地蔵院のお地蔵さんは、首に麻の布切れを巻いているのが特徴的。
実は、この布にはこんな言い伝えが・・・。


むかし、有名な一休和尚が東海道を旅していたそうな。地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通 りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。
しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ 間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。
これに怒った村人たちは別 の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。
あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。

それ以後、関のお地蔵さんは麻の布を首に巻いているということです。
地蔵堂にまつわる古事です。




撮影に出かけたときは愛染堂 の前に見事な古木の桜が咲いていました。

●愛染堂前の桜

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■地蔵院鐘突き堂

鐘楼の鐘は、知行付の鐘と呼ばれ、寛文十一年(1671)に建立された。
鐘楼の近くには、明治天皇御行在所の石碑が建っていた。

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東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並みとして今も保存されている。


車を駐車場においてフラット歩く、ある角を曲がるとそこにあるのは、江戸時代と見まがう宿場町の風景だ。
ほら!その畑がある横の道そこから手ぬぐいを頭にかぶりざるなんかもって野菜売りのお姉さんがふと姿を現しそうなそんな道なんですから、どこか懐かしい道なんですからね。
一緒にあるいてみましょう~



三重県亀山市内には東海道の三つの宿がある。
江戸~京都をつなぐ東海道。
亀山市には、その46、47、48番目にあたる3つの宿場町 亀山宿・関宿・坂下宿があります

そのひとつ、江戸から数えて47番目の関宿は、東海道で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。

江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。
火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入しました。
新所を中心に数十軒の火縄屋があり、山車【やま】が曳き出される関宿の夏祭りも良く知られていました。
狭い関宿を最盛期には16基もの山車がねり、「関の山」 という言葉まで生まれたほどでした。当時の賑わいが偲ばれます。

明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていましたが、明治23年の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受けます。
町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためです。
その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至るのです。

昔から宿場として栄えた町並みも近代の車社会から離脱脇街道の運命をたどることに。
だからこそ静かな町並みとして現在も保存されているのかもしれない。
この関宿田園風景が残るところにあるこんなのどかな風景とマッチする宿場後世にもこのままで残してほしいとねがいます。
■関宿遠景
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1・8キロに及ぶ一本道に400あまりの建物が並び、うち半分以上が伝統的建造物。
当時からの細工瓦やしっくい彫刻もあちこちに見える。
当時をしのぶ白壁の家々、屋根に設けられたうだつ、豪商の家に見られる海鼠壁、当時の宿場の繁栄と賑わいを感じ取ることができる、ふとその横路地から昔の旅人が飛び出してきそうなそんな妙に親しみやすい感じさえする。

町並みや虫籠(むしこ)窓(=建物の二階にある漆喰の堅格子の窓)、関宿の特徴である少しカーブした屋根の形などを楽しみながら散策します
この虫小窓外からは見通せない感じですが中からは通りがよく見えるようになっている。
これも先人の知恵が生み出したものでしょうか。

■虫籠(むしこ)窓
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■朽ち果てていますが虫窓
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この宿場は、古くは古代三関のひとつ鈴鹿関が置かれ、奈良、伊勢への分岐点でもあった。
この宿場に止まり英気を養い再び長い旅へと旅立ったのでしょう。

【関宿の規模】
本陣:2 脇本陣:2 旅籠:42 総家数:623軒 宿内人別 1,942人(男:1,008 女:934)

★ここで宿について復習してみます。当時旅をする人は三箇所の宿がありました。
武士でも身分の高い人は本陣に泊まりました、本陣とは当地の豪商あるいは庄屋がかねておりました。
それよりも身分がしたの家来などの武士は脇本陣などに止まりました。
旅をする町人は旅籠に一般的に止まります。
町人の中でもお金の持ち合わせがない人は食事がつかない相部屋の木賃宿に泊まったといわれています。



この関宿で、かつて旅籠だった「関宿旅籠玉屋歴史資料館」町家だった「関まちなみ資料館」に入ると、当時の建物の様子がわかる。

■関宿旅籠玉屋歴史資料館
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江戸時代末期に建築された町屋で、関宿を代表する町屋建築の一つだそうです。
町屋で使用されていた道具や家具などが展示されています。
今も現役の「箱階段」も必見!

★「箱階段」
現在はあまり見ることもなくなった箱階段、昔は階段下を有効に活用するため小さく引き出しが作られ今の収納スペースとして大いに活用していた。
現在はあまり見かけなくなりました。

■昔の箱階段
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★当時の宿および商家とは

関宿の町屋は、平入(ひらいり)で低い二階建ての構成を持つものが一般的です。
一部には平屋のものや妻入(つまいり)のものも見られます。
前面は1階と2階の柱筋を そろえ、間に瓦葺や厚板葺の庇を設けます。
この庇がならぶことで、町並みは整った 美しさを見せています。前面の意匠は、1階はすりあげ戸が普通でしたが、 出格子窓が付けられていたり、格子戸を付ける例が多くなっています。
一方2階は、木部をあらわした真壁(しんかべ)のものと、 漆喰で塗籠(ぬりご)めた大壁(おおかべ)のものが併存しています。
この二階部分に虫窓が設けられています白い漆喰壁にとてもあっている気がします。

このような町屋の建築年代は、最も古いもので18世紀中頃と見られ、明治中頃までの時期のものが多くあります。
また、明治後期から大正・昭和期にかけての町屋には、二階が発展して建ちの高いものもあります。

細部の意匠を見ると、庇下の幕板、軒の持ち送り繰り型、二階外壁面の窓額縁や漆喰細工、起り屋根、格子、建具など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります。
このような外観や細部の意匠の多様性は、不特定多数の人々が行き交う宿場町の町屋にふさわしいものと言えます。

間口は狭いが、玄関から細長く土間が伸び、座敷から中庭を挟んで、離れ、蔵と続いていく。
これが関宿の間取りの典型で、奥行きの平均は40メートル以上もあるという。
どのいえいえも間口が狭く奥行きが広いいわゆるうなぎの寝床なのである。
奥には中庭が配置しておりゆったりとした間取りになっている。

現在も保存されている商家に入ると置くが長く当時の仕事がやりやすいように、随所に様々な工夫が施され現実に暮らしていく上において使いやすく人にやさしく風通しもよく居心地はよかったように思える。
ゆったりと配置された座敷、室内から外の通りを見通せる格子ブライバシーを程よく守りながらしかも、当時のようなおおらかさを兼ね備えた住まいだと感嘆しました。

また当時は時の流れもゆったりとそれが随所に見られるそんな配慮が伺えます。


■町家に用いられた漆喰瓦
中央の白い飾り部分家の持ち主が子孫の反映を願って各家々にデザインが施されているといわれています。

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★明日は昔有名な旅籠(会津屋)現在はそばやおこわの食事どこをしているお店や、その道路を挟み前の地蔵院有名な故事もある古いお寺をお伝えしたいと思います。
一休禅師の知られざるお話も聞けるかも知れないですよ是非ご覧ください

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