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旅人が行き交う町並み、そこで日々繰り広げたであろう旅籠の生業・・・・。

耐えることなく日々行きかう人に暫しの宿、旅する人にとってはどれだけ旅籠の明かりが恋しいものであったのか遠い道のりをつかれきった足を引きずり歩く人には安らぎの、それ以上の明かりに見えたに違いない。

昔は今のようにタクシーなどない時代ただひたすら歩く歩く歩く、辛い旅であったにちがいないだろう。

◎この歴史資料館になっている ”旅籠:玉屋” は当時から関に止まるなら玉屋とほか二件が特に有名だったと歴史書に記載がありました。
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◎旅籠の入り口の土間すぐ横に二階へあがる階段があり土間の後ろには帳場があったようです。
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◎ここで、この写真に面白い実話。
私はめがねをしていないとはっきりとゆうか見にくいのですが、この玄関から建物中ほどの薄暗い展示スペースの帳場にいる男の方を見かけたのでこんにちわと声をかけてしまった。
じっくり見てあ!!人形だ。
そのときはほんとに恥ずかしく一瞬周囲を見渡しました。
でもほの薄暗いと本と間違います実物と・・・・・・多分、挨拶した人ほかにもいたかも。


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帳場の後ろの部屋は家族の部屋らしくなっていたようです。
裏側の中庭をはさみ家族用の部屋の割り振りがあったのをみかけたことがある。


◎ここ関宿の会津屋は昔旅籠をやっていたとお聞きしました。
今は食事何処、蕎麦やおこわを食べることができます。
その名残に屋根の上のうだつに会津屋と書かれた漆喰壁昔の繁栄を物語ります。
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この会津屋は西の追分と東の追分の中央にあり前に道路を挟んで有名な地蔵堂があり、今もそうですが当時も旅人がたちよるメッカだったと思います。
今も地蔵堂には観光客が耐えないですね。


★では、旅籠とはどんな宿なのでしょうかここでは各街道にあった一般的庶民が泊まる宿について記載してみます。
(浮世絵を参考にお話させていただきます)

「はたご」という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠の事でした。
時代劇などを見ているとしっかりとした木の策に馬をつないで水を飲ませたりえさをやっている映像をみることがあります。それが、旅人の食糧等を入れる器の意味にさらに食事を提供する宿屋を旅籠とさすようになえいました。
江戸時代には宿場ごとに多くの旅籠があって泊まり客で賑わいました。

時代が進み蒸気機関車が走るころになる明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになり、現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。

しかし、旧街道を旅するときは旅籠ほどそれに似つかわしい宿はないと思います。
今も昔の宿場撥に時折本当に営業している旅籠があります、現代の雑踏を忘れこうした昔を振り返ることができるそんな旅籠に一度とまってみたいと思います。
ふと、歴史を振り返るきっかけになったり懐かしいものに触れ合えたりほっとするたびになりそうですね。

ほんとうに歴史的に価値のある文化財がたんなる旧跡としてあるのではなく、現在でも宿泊できる生きている形で存在しているのはとても大切なことだと思います。
旧街道を巡る人だけでなく、日本の文化を愛する人にはぜひ泊まってもらいたいと考えています。


江戸時代の庶民の宿には、朝夕の食事を提供する旅籠と、宿泊客が薪代を払って自炊する木賃宿がありました。
江戸初期には木賃宿が主流で、旅籠が一般化するのは、江戸中期頃からといわれています。

■一般的な旅籠
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江戸の初期旅に出るといっても本当に命をかけて旅をするものでした。
いつ盗賊に襲われるかわからないいつ病で息耐えるかわからないそんな状態でただひたすら目的地まで山山を越え歩いたのですからどれだけ大変だったか容易に想像できます。


当時は現在のように宿泊を予約することがなかったので、宿場の旅籠は客を確保するために、各種の講(寺社への参拝などの目的で作られた団体)の定宿になるように努力し、また路上で旅人に呼びかける客引きが盛んでした。

映画で見かける夕刻の旅籠宿をいっぱいにしようと女中が見せの前で客の旅人を捕まえる画像みかけますね。
あんな時代だったのでしょう。


旅籠の前の路上で、客引きの女(留女)が旅人を強引に引き止めています。歌川広重の「東海道五十三次」の御油の絵にも同様の光景が見られます。
夕刻はどこの宿場でも見られた光景です。
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はたごに入ると一番に女中が洗い桶を持ってきます。
たらいで足をすすぐ客と、客の荷物を持つ女中がいて面倒をみてくれます。
それから部屋に案内してくれて、荷物の柳行李(やなぎごうり)と風呂敷包みを座敷に運びます。きやはん)も洗い、座敷へ通ると女中に茶を持ってこさせます。
旅籠での第一は足を洗うことでした。

今では道路事情もよく、まず歩いても足が汚れるなどそんなことはありえないですがこの当時わらじなのですから当然泥もつけば汚れもします、どこでもまず家に上がるのは、洗い桶に水を汲むことから始まるのです。


一般の客が泊まる旅籠の宿での夕食を見ると、酒の肴に白板かまぼこ(白い上等のかまぼこ)、漬しょうが、車海老、紫蘇の実、赤みその吸物などがあげられています。
この場合の食事はまだ品数がありだされたものも結構よい食事と言えそうです。
一般はご飯と一膳の味噌汁、それに小魚と漬物ちょっとした煮物が魚の代わりにつくとかのそんな質素なものでした。

そりゃ~~金持ちが頼めばまた贅沢な食事もでたじだいでしょうね。

一般には大体、一汁二菜程度のものと思われます。
旅籠の食事は宿泊代の上中下によって、それなりの料理を出していたようです。

お金を切り詰めて旅をする庶民にとって旅籠では実に切り詰めないといけなかったのです。
野宿以外で布団で眠れるそれだけでありがたい時代でした。


■こんな話が伝わっています。

猿廻しで生計をたてている兄弟この食事の場面も随分質素に見えます
足の低い膳(足付折敷)の上には箸と飯椀とおかずの皿があり、膳の右の浅い鉢には長い箸が見えますから取り分け用のおかずのようです。
傍には大きな飯櫃(めしびつ)がありますが、飯櫃は、めしつぎ、おひつ、おはちなどとも呼ばれ、自動炊飯器の出現以前には、炊いたご飯はすぐこのおはちに移し、食生活の必需品でした。

庶民の日常の食事について『守貞謾稿』(1853)にはおよそ次のようにあります。
「江戸では朝に飯を炊いて味噌汁とともに食べ、昼は冷飯で野菜か魚肉などの一皿を添え、夕飯は茶漬けに香の物を添える。京坂では昼に飯を炊き、煮物あるいは魚類または味噌汁など二、三種を添え、朝飯と夕飯には冷飯に茶、香の物を添える。」これが庶民の普通の食事のようです。
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◎庶民の食事善
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見てのとおりあまり贅沢とはいいがたいですね。
これがまた豪商などになると、大臣並なのでしょうが、一般市民はささやかなものですね。

膳の左にある土瓶は、現在でも見馴れたもので、土瓶は蔓(つる)、急須は把手(とって)の違いはありますが、両方とも煎茶を入れて適温の湯を加え、茶汁を茶碗に注ぐ淹(い)れ方です。
江戸時代には、やかんや土瓶を火にかけて湯をわかし、その中へ煎茶を入れて煮出す方法も行われていました。
絵には薪が燃えている火鉢がありますから、土瓶で煮出したお茶でしょうか。

昔の品物も忘れられている時勢ですがここに出てくる土瓶はいまもありますね。
まったけの土瓶蒸しに使われたりなじみがあるとおもいます。

ここにも少し記載してありますが ”おひつ” とは窯で一度炊いたご飯を木の桶に入れておくものです。
まず今の若者ではまったく見たこともないと思います、最近は炊飯器が主流で保存間でしておりますからわからないですね。
よく観光にある古民家などの施設ではあえて ”おひつ” ”めしびつ”などを作り方を教えてくれて実演をしたりしています。
昔をしのぶにはよい題材になるとおもいます。

現代の生活と似た一面もありますが物資の少ない時代者を大切につかっていたのでしょう。
何しろ当時はあたり和えの一汁一菜これだけでも食べれるのは幸せだったのだろうと推測します。

当時の旅人は宿でおにぎりを作ってもらったりすることもあるそうです。
いったん宿を出ると次の宿まで順調にいかれればいいのですが何があるかわからない、そうなるとやはり水とおにぎりは命の元なのです。
それと味噌、よく昔から戦いに出向く武士が味噌や塩を持っていったと聞きます。・
体のため健康に欠かせない成分だったのでしょう。

ここ関宿も東西のほぼ真ん中に位置し旅人が往来する要でもありましたから始終旅の泊り客があっただろうと推定します。





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鈴鹿の関宿といわれたのは・・・・・・・どうしてなのか!!

徳川家康による宿駅制度の実施により、慶長六年(1601)、東海道の四十七番目の宿駅となったことにより、それ以後重要な拠点として東西交通を担ってきた。

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現在の町並みの基本構造は、天正年間(1573〜92)に関盛信が付近の道路を改修し、 新所と木崎の間に町(中町)をとり立ててできたものと考えられています。
この中町の町立てにより町並みは東にのび、現在のような規模になったのです。

▲市制資料館からの引用写真
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▲関宿本陣からの大名の旅立ち浮世絵より引用です
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上記引用写真から見て取れるのは、東西交通の便がよいことと、人の流れが多く重要な幹線であったことが伺える西から東へ東から西への要所として要的役割も果たしていたと推察します。


慶長6年(1601)の徳川家康の宿駅制度化により、関宿も東海道の正式な宿駅として整備され、 伊勢別街道及び大和街道との分岐点という立地条件により繁栄していきました。

天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、家数632戸、人口1,942人、 本陣2、脇本陣2、旅籠屋42となっており、東海道屈指の宿場であったことを物語っています。

また、宿場には多くの人々が密集して生活していたため、ひとたび火事となると大火となって大きな被害をだしました。
町にはこうした大火に備え、防火のための施設も設けられていました。
宿場の各所にあった「火除松林」「土居」などは、防火帯として設けられたものです。
また、「水溜」は用水池や防火用水として設けられたものと考えられます。
現在も随所にこの、「水溜」が設置されています。

当時の町屋の特徴としては
部屋は表からミセ・ナカノマ・オクノマ(ザシキ)と呼ばれますが、 四室になる場合はオクノマからブツマが独立して1部屋となります。
シモミセは家族の居室・帳場などとして使われ、旅籠屋に多く見られます。

ミセの上には「厨子(つし)」という低い二階があります。
現在も中二階といった形で残っています。

現在こうした中二階を見ることがあまりない私たちには、どこか風情があり住んでみたいそんな感じのとらわれるものでした。

旅籠などを除けば二階が座敷になることは少なく、物置として薪・柴などを蓄えておく場所でした。
明治後期から大正以降の町屋では、二階が発達して座敷を設ける例が一般的になります。

現在も随所に昔ながらの長屋形式で残る古い民家にはたいてい中二階があるようです。



■新所(しんじょ)の町並み
新所は関宿の西側に位置します。
地蔵院の門前となる新所東側は、中町と一体の家並みを形成し、中二階の町家が多く、主屋の横に庭を設けて高塀をめぐらす質の高い町家もみられます。

一方新所西側は、その大半が小規模な平屋で仕舞屋風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みです。新所の特色としては各町家の格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が比較的よく残っています。

■北裏(きたうら)の町並み
関宿には1社・10ヶ寺がありますが、地蔵院を除きすべて街道の北側にあります。
街道から北側に入る小路の奥には、各寺院の門や本堂の屋根をみることができます。

北裏は中町から木崎の町並みの北側に位置し、寺院や神社の境内がならんでいます。街道からかけ離れた落ち着いたたたずまいで、樹木などの自然も多くあります。

■ 中町(なかまち)の町並み
中町は関宿の中央に位置し、西から一番町から六番町までにわかれています。本陣・脇本陣・問屋などがおかれ、主だった旅籠が集中した宿場の中心で、特色ある町屋が残っています。町家は比較的建ちの高い大規模なものが多く、二階壁面も塗籠めて虫籠窓をあけたり、全面に手摺りを設けて開放するものが多く、意匠的により華やかです。

中町から西を見ると、美しい家並みとともに、地蔵院本堂の屋根と鈴鹿の山々が正面に見えます。関宿の最も美しい町並み景観のひとつです。


■木崎(こざき)の町並み
木崎は関宿の東側に位置します。町家は平屋ないし中二階の比較的建ちの低いものが多く、 二階壁面は真壁にしたものが普通です。
中町に比べその意匠はより簡素ですが、伝統的な町並み景観がよく維持されています。




★本会は宿場の中ほどに位置する寺 "地蔵院" について詳しく調べてみました。

関町関宿は細長い地形をしており西の追分東の追分とに分かれていて約1.8キロの長さにまちっが栄えていたといわれる。
その西と東の追分の中央辺りに地蔵院がある。
この寺にはいろいろな古事もあり面白いお話しが聞けた。
天井には、仏典を題材に元禄時代の絵師狩野永敬が、十年の歳月をかけて描いた一七四枚の天井画が 描かれています。



■地蔵院【国重要文化財】


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関地蔵院は、関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 、という俗謡で名高い、関地蔵が祀られている寺である 天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられる関宿きっての名刹です。
関宿のほぼ中央に位置し、旧東海道に面して開放的な境内をもちます。
近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集めました。 境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています。


天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。
この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われています。
境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。


◎地蔵堂に伝わる古い話
●関の地蔵と一休和尚
関宿にある地蔵院のお地蔵さんは、首に麻の布切れを巻いているのが特徴的。
実は、この布にはこんな言い伝えが・・・。


むかし、有名な一休和尚が東海道を旅していたそうな。地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通 りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。
しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ 間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。
これに怒った村人たちは別 の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。
あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。

それ以後、関のお地蔵さんは麻の布を首に巻いているということです。
地蔵堂にまつわる古事です。




撮影に出かけたときは愛染堂 の前に見事な古木の桜が咲いていました。

●愛染堂前の桜

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■地蔵院鐘突き堂

鐘楼の鐘は、知行付の鐘と呼ばれ、寛文十一年(1671)に建立された。
鐘楼の近くには、明治天皇御行在所の石碑が建っていた。

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テーマ:ある日の風景や景色 - ジャンル:写真

東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並みとして今も保存されている。


車を駐車場においてフラット歩く、ある角を曲がるとそこにあるのは、江戸時代と見まがう宿場町の風景だ。
ほら!その畑がある横の道そこから手ぬぐいを頭にかぶりざるなんかもって野菜売りのお姉さんがふと姿を現しそうなそんな道なんですから、どこか懐かしい道なんですからね。
一緒にあるいてみましょう~



三重県亀山市内には東海道の三つの宿がある。
江戸~京都をつなぐ東海道。
亀山市には、その46、47、48番目にあたる3つの宿場町 亀山宿・関宿・坂下宿があります

そのひとつ、江戸から数えて47番目の関宿は、東海道で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれている。

江戸時代の関宿の名物・特産品として火縄がありました。
火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用がありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入しました。
新所を中心に数十軒の火縄屋があり、山車【やま】が曳き出される関宿の夏祭りも良く知られていました。
狭い関宿を最盛期には16基もの山車がねり、「関の山」 という言葉まで生まれたほどでした。当時の賑わいが偲ばれます。

明治時代になり宿駅制度が廃止されても、往来する旅人の数はむしろ増加し宿場は栄えていましたが、明治23年の関西鉄道(現JR関西本線)の開通によって大きな打撃を受けます。
町の産業の中心であった往来稼ぎの商売が成り立たなくなったためです。
その後は、国道1号線が旧街道からはずれた位置を通ったこともあり、近隣に生活する人々のための商業地として徐々に静かな町 へと変化し、現在に至るのです。

昔から宿場として栄えた町並みも近代の車社会から離脱脇街道の運命をたどることに。
だからこそ静かな町並みとして現在も保存されているのかもしれない。
この関宿田園風景が残るところにあるこんなのどかな風景とマッチする宿場後世にもこのままで残してほしいとねがいます。
■関宿遠景
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1・8キロに及ぶ一本道に400あまりの建物が並び、うち半分以上が伝統的建造物。
当時からの細工瓦やしっくい彫刻もあちこちに見える。
当時をしのぶ白壁の家々、屋根に設けられたうだつ、豪商の家に見られる海鼠壁、当時の宿場の繁栄と賑わいを感じ取ることができる、ふとその横路地から昔の旅人が飛び出してきそうなそんな妙に親しみやすい感じさえする。

町並みや虫籠(むしこ)窓(=建物の二階にある漆喰の堅格子の窓)、関宿の特徴である少しカーブした屋根の形などを楽しみながら散策します
この虫小窓外からは見通せない感じですが中からは通りがよく見えるようになっている。
これも先人の知恵が生み出したものでしょうか。

■虫籠(むしこ)窓
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■朽ち果てていますが虫窓
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この宿場は、古くは古代三関のひとつ鈴鹿関が置かれ、奈良、伊勢への分岐点でもあった。
この宿場に止まり英気を養い再び長い旅へと旅立ったのでしょう。

【関宿の規模】
本陣:2 脇本陣:2 旅籠:42 総家数:623軒 宿内人別 1,942人(男:1,008 女:934)

★ここで宿について復習してみます。当時旅をする人は三箇所の宿がありました。
武士でも身分の高い人は本陣に泊まりました、本陣とは当地の豪商あるいは庄屋がかねておりました。
それよりも身分がしたの家来などの武士は脇本陣などに止まりました。
旅をする町人は旅籠に一般的に止まります。
町人の中でもお金の持ち合わせがない人は食事がつかない相部屋の木賃宿に泊まったといわれています。



この関宿で、かつて旅籠だった「関宿旅籠玉屋歴史資料館」町家だった「関まちなみ資料館」に入ると、当時の建物の様子がわかる。

■関宿旅籠玉屋歴史資料館
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江戸時代末期に建築された町屋で、関宿を代表する町屋建築の一つだそうです。
町屋で使用されていた道具や家具などが展示されています。
今も現役の「箱階段」も必見!

★「箱階段」
現在はあまり見ることもなくなった箱階段、昔は階段下を有効に活用するため小さく引き出しが作られ今の収納スペースとして大いに活用していた。
現在はあまり見かけなくなりました。

■昔の箱階段
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★当時の宿および商家とは

関宿の町屋は、平入(ひらいり)で低い二階建ての構成を持つものが一般的です。
一部には平屋のものや妻入(つまいり)のものも見られます。
前面は1階と2階の柱筋を そろえ、間に瓦葺や厚板葺の庇を設けます。
この庇がならぶことで、町並みは整った 美しさを見せています。前面の意匠は、1階はすりあげ戸が普通でしたが、 出格子窓が付けられていたり、格子戸を付ける例が多くなっています。
一方2階は、木部をあらわした真壁(しんかべ)のものと、 漆喰で塗籠(ぬりご)めた大壁(おおかべ)のものが併存しています。
この二階部分に虫窓が設けられています白い漆喰壁にとてもあっている気がします。

このような町屋の建築年代は、最も古いもので18世紀中頃と見られ、明治中頃までの時期のものが多くあります。
また、明治後期から大正・昭和期にかけての町屋には、二階が発展して建ちの高いものもあります。

細部の意匠を見ると、庇下の幕板、軒の持ち送り繰り型、二階外壁面の窓額縁や漆喰細工、起り屋根、格子、建具など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります。
このような外観や細部の意匠の多様性は、不特定多数の人々が行き交う宿場町の町屋にふさわしいものと言えます。

間口は狭いが、玄関から細長く土間が伸び、座敷から中庭を挟んで、離れ、蔵と続いていく。
これが関宿の間取りの典型で、奥行きの平均は40メートル以上もあるという。
どのいえいえも間口が狭く奥行きが広いいわゆるうなぎの寝床なのである。
奥には中庭が配置しておりゆったりとした間取りになっている。

現在も保存されている商家に入ると置くが長く当時の仕事がやりやすいように、随所に様々な工夫が施され現実に暮らしていく上において使いやすく人にやさしく風通しもよく居心地はよかったように思える。
ゆったりと配置された座敷、室内から外の通りを見通せる格子ブライバシーを程よく守りながらしかも、当時のようなおおらかさを兼ね備えた住まいだと感嘆しました。

また当時は時の流れもゆったりとそれが随所に見られるそんな配慮が伺えます。


■町家に用いられた漆喰瓦
中央の白い飾り部分家の持ち主が子孫の反映を願って各家々にデザインが施されているといわれています。

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★明日は昔有名な旅籠(会津屋)現在はそばやおこわの食事どこをしているお店や、その道路を挟み前の地蔵院有名な故事もある古いお寺をお伝えしたいと思います。
一休禅師の知られざるお話も聞けるかも知れないですよ是非ご覧ください

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戦国時代から千利休の詫びさびが今まさにここに受け継がれる

師弟:片桐石州により受け継がれ現代に通じる茶道を見る



ちょっと管理者作:俳画ご覧くださいね~
気持ちをきりかえて一休み・・・・・

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石州流の祖その人片桐石州とは!!!  茶道石州流とは!!

千利休の長男・千道安からその弟子桑山宗仙へと伝わった茶系で、江戸初期に桐山石州が開いた一派です。
小堀遠州の跡を継ぎ、将軍家茶道師範となった。利休から道安を経て宗仙に伝わった茶の湯を学び、武家流茶道を完成。


★慶長10年(1605年)、初代藩主・片桐貞隆の長男として摂津茨木で生まれる
大和小泉藩の第2代藩主。別名 鶴千代(幼名)、片桐貞俊(初名)、片桐石州(通称)諡号 宗関
父母 父:片桐貞隆、母:今井宗薫の娘 兄弟 片桐貞昌、片桐貞晴
妻 正室:大久保忠常の娘 子 片桐信隆(長男)、片桐信明(次男)、片桐貞房(三男)、松田貞尚(四男)


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茶人として貞昌が成功したのは、母方の祖父が有名な茶人のひとりである今井宗久だったからかもしれない。


戦国時代の茶道から江戸初期へと移り変わる詫びさび小堀遠州へと受け継がれ、長き年月を経て片桐石州に受け継がれた。

茶人としての石州は、最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に学んだといわれている。
30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明や近江小室藩主・小堀政一(遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。
特に第4代将軍・徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、なおかつ寛文5年(1665年)には家綱の茶道指南役となり、石州流を不動のものとした。


石州の門下から、怡溪派(いけいは)、野村派、宗源派、伊佐派、鎮真派、大西派、清水派、野田派、不昧派(ふまいは) などがでています。

片桐石州の影響を受けた幕府人といえば井伊直弼、伊達綱村、保科正之、松平不昧などが後世に名前がのこる茶人といえます。
片桐石州69歳で没するまで茶人として人生をまっとうしたといえる。


■では、石州の志した茶道とは!

水屋
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床の間
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石州の茶の湯は、千道安(千利休の長男)の流れを汲む桑山宗仙から学んだものである。
利休本来の茶の湯の精神を継承しつつ、時代の流れである武士中心の世の中に調和させた「分相応の茶」を説いたことが、将軍家をはじめとして諸大名達に受け入れられることとなった。

石州に茶の湯を学んだ人物としては、徳川四代将軍家綱・水戸光圀(関連項目)・堯然法親王・松浦鎮信・藤林宗源・清水動閑・大西閑斉・保科正之・怡溪宗悦・野村休盛などが挙げられる。彼らがさらに全国各地へ石州の教えを広めたことから、後に茶道ができてからは「石州流」となり、怡溪派・清水派・鎮信派・伊佐派・宗源派・嘉順派・大西派・大口派・古石州・宗猿派・不昧派・野村派・林泉寺派・古閑堂派など多くの派に分かれている。


基本的には古田織部に似た風合いであり、基本は武家の茶道であったといわれる。
優雅さの中に力がありそのたくましさに詫びさび利休が愛した侘びとさびの世界がうまく絡み合うそんな茶道ではなかったかと思います。
一期一会を井伊直弼が愛したといわれますが、その精神は片桐石州から学んだともいわれております。

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石州の茶道の理想が、「侘びの文」にいう侘び茶にあったことは明らかであるが、これにとどまらず、「石州三百箇条」においては、武家風の貴族茶と奈良・堺風の庶民茶の融合を試みている。



大和郡山市にある慈光院。

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慈光院参道
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江戸時代、大和郡山小泉藩の藩主であった片桐石見守貞昌(片桐石州)が菩提寺として父のために建立した臨済宗大徳寺派のお寺です。


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千利休が生み出した破たん児  ”古田織部”

やはり自害により人生を清算した茶人 ”織部お前もか” になってしまった。
だからこそ苦悩の人生でもあったといえる。



ここから本筋に入りますがその前にちょっと一服俳画など管理人作です

次回明日は街道を行くシリーズ・古い町並み三重関宿を掲載します。


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利休流の茶道は、一人の鬼子を生み出します。
古田織部です。
利休の弟子の中で古田織部は、際立った特質を見せています。
その持ち前の茶道への素質それは利休も目をみはるものがあったといわれます。
独立性と創造性どれをとっても利休に勝れ利と言わしめるほど素晴らしい才能の保持者だったといいます。
★利休も認める利休をも超える素質のある織部の素質をいち早く見抜いていたのも利休ではなかったろうか。

古田織部の茶道を、どのように捉えたらよいのでしょうか。
古田織部は、動中に美を捉え、織部の茶道は、武人的な本質から生じたものだとされています。
また、織部は、目につく美をあらゆる形において表現しようと努め、その好みは武家風の雄大な力強いものであったとされています。
★元来武士の家に生まれた織部にしたら自然と武士としての力強さ雄大さなど表現しやすいのは当たり前だろう。 

目立たない調和のとれた美を求めた利休の茶道とはあまりにも違う織部の茶道は、どのように利休の茶道につながるでしょうか。
おそらく、日本の美を追及しようするという利休茶道の本質を、古田織部ほど感覚的に理解していた弟子は他にいなかったように思われます。
利休のような繊細な感覚を持ち合わせていなかった織部は、自分流のやり方で日本の美を追求しようとしたのでしょう。
今日でもなお、織部好みの茶道具がわれわれを日本人の心をとらえて離さないのは、それゆえではないでしょうか。「かぶく」美の表現だとされる織部茶碗は、利休が造らせた楽茶碗にも並ぶ純和風の美を備えているように思われてなりません。


千家の茶道の本系は、娘婿で養子の少庵から孫の宗旦へと受け継がれていきます。

利休には、独創性に富み、非常にすぐれた茶人であった道安という長男がいました。

道安は、気性が激しく、温和な少庵とは対照的であったと言われています。
生前の利休は、道安に強い期待を持っていたようです。
しかし利休と道安は相容れない一面もあったように思われます。

 
宗旦の同時代の人々には、綺麗さびの小堀遠州、姫宗和と呼ばれた金森宗和、楽茶碗に独自の境地を開いた本阿弥光悦などがいます。
まさに茶道第二期黄金時代といえるような状況でした。
この頃になると、利休の茶道に強く縛られることも無く、それぞれが独自の茶道を追及するようになってきていたように思われます。
その中にあって、あくまでも利休流茶道にこだわったのが、利休直系の宗旦でした。
利休の二人の息子、道安と少庵から利休流茶道を学んだ宗旦は、利休の茶道のすべてを習得していたと言ってもよいように思われます。
★道安と少庵からそれぞれ学び取る茶道は後世に受け継がれていると信じます。



では、ここで古田織部が作り出す、茶器”織部焼き” とは。

織部焼き:へうげもの
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織部焼き:織部黒茶碗
kurooribe


織部焼き:青織部
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織部焼き:織部中皿
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織部焼き:織部鉄絵抹茶碗
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瀬戸黒茶碗と同じように、黒釉が器の全体を包んで、文様のないものを黒織部という。
そこで瀬戸黒と織部黒の違いは、作為にあって、瀬戸黒は端正で左右の釣りあいがとれて均斉であり、姿は半筒型で腰は張る。 高台もまた低いものを指す。
一方、織部黒は造形としては歪みをもつ、すなわちロクロ成形のあと、思い切って変形させ、その上に櫛目、削り目をを入れるなどして、形そのものがダイナミックであって、高台もいろいろ変化させている。
★古田織部の作る織部焼きを俗にへうげもの、とゆう。
ロクロ作成以外の形を壊す美その美しさに美を見出した織部、近世の取れた茶気を望む利休と比べるとまったく正反対の構想のもちぬしでもあったのだろう。

前者が利休好みの楽茶碗に代表され、後者は織部の性格そのものの如く、沓形茶碗といわれるものとなっている。
豪放で、いかにも武家にふさわしい雰囲気を感じる。
また、瀬戸黒は天正年間(1573~92)につくられたと推定されるところから、「天正黒」あるいは「引き出し黒」と呼称することがある。

★古田織部の作り出した深い緑の色合いその色合いを作るのに釉薬を調合その比率を変えたりとそれが織部の茶気の特徴かもしれない。
現代も飽きることなく大勢に愛される茶気として形を変え現存しているのは素晴らしいことだと思う。

茶道も紆余曲折・・・・時代は進み
宗旦は、利休にならい楽焼三代目道入にのんこう茶碗を焼かせ、中村宗哲に宗哲棗を作らせました。
また、飛来一閑には、一閑張りという独特の漆器を作らせました。
さらに、宗旦は、三男の江岑宗左に利休相伝の不審庵を、四男の仙叟宗室には、自分が営んだ今日庵を譲り、千家茶道の基礎固めをしました。
★現在裏千家表千家がそれぞれお弟子さんを持ち増やし、元祖利休の志を受け継いで脈々と広められている。


茶道を継承するとは、先人の考えを理解し、それを自分のものにすることだといえるでしょう。
時は流れ時代が変わろうと受け継がれた和の心、茶道における侘びとさび何も茶道にかかわらず、どこにでも詫びさびの世界はあるもの、あなたなりの詫びさびを味わえれば人生潤うそうおもうのです。


私は思う和の心日本の侘びさびとは

たまには一本の花を生けてみよう
ふと歩いていて道端の草花に心移してあげよう
流れる雲を眺めて遠い昔茶を清めた先人がいたことを思い出そう
そして自分なりの日本の心を育てよう。


茶改まってお手前をしなくてもあなたの心がそうであればいいのだろう。
普段着の茶道単に湯飲みにおいしいお茶入れてゆったりと思いをはせながら飲む一服最高ではないか。

私はそんな、普段着のお茶好きです・・・・・・・・・・。


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茶の湯の虜になった男たち。
茶の湯は歴史を変えたそれは芸術か、いなや!――



中ほどに ”一服タイム”管理者作:俳画を掲載。
少しでも詫びさびを感じ取りたいと思います。

 


戦国時代以来、多くの権力者を虜にしてきた茶の湯。家康、信長、秀吉、利休、宗久、宗二、遠州、織部・・・など、個性ゆたかな人物群像をつらぬく男の生き方を探り、限られた空間と茶道具が生み出す特異な茶の湯の美学に迫る。

茶事は人生をも変えてしまうほど権力者たちに重宝された、しかし本来茶事の持つ芸術美学といえるものはそうではなかったはず。
質素な詫びさびを愛しいつくしみ心の安らぎを得るためのもの、精神修養のためのもの教養としての茶事であったはず。

歴史と権力者と茶人おのおの限られた空間が生み出す宇宙の中で、おのおのにこだわりを持ち、その美学の違いが、ある時は政治的対立の要因にさえなった。
いつの世も最先端の文化として存在し、権力者と強く切り結んでいた茶の湯を通して、歴史の本流からは覗けない、個性豊かな茶人たちのなまの姿と心情が見えてくるのもまた後世から見えてくる茶事の世界でもある。



ちょっと一休み写真タイム  管理者作:俳画
私なりの詫びさびを俳画に求めました。

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■今回は茶人その人に迫りたいと思います


茶道は、室町時代の東山文化の中心、将軍足利義政の茶道師範であった村田珠光にはじまり、千利休で完成されたといわれます。
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では完成された茶道とは何だったのでしょうか。
また茶人はなぜ切腹を命ぜられたのでしょうかその真相は。

先駆者・村田珠光は、形式的な書院飾りの法式に仏道修行を取り入れ、茶の道を成立させました。また珠光は、茶道に侘びの感覚を取り入れました。
珠光の言葉に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」というのがありますが、当時の唐物中心のなかで、国焼のもつ素朴な美しさに注目しました。

しかし、村田珠光の取り入れた侘びは、華やかさの対極として侘びでした。
まだ、侘び自体としての内実を備えたものではありませんでした。
まだまだ初歩的な侘びとさびの形態ですがその本質は後の利休、織部。石州の基本となるものです。

★私は現代の茶道における形そのものは村田珠光 ありてのものだと大いに評価するものです。利休がそぎ落とし対をおなじとせず、織部が対を同じとし綺麗さびとする、まさに時代と共に移り変わる茶道そのものを見せてくれますね。

その初歩の形態に利休は侘びさびの自体に向かい合おうとしました。侘びの要点は、「正直につつしみ深くおごらぬ様」である、と述べています。
また、侘びとは、不完全美だともいっています。
もう、そこには、華やかな形式美に対する意識はさほど見られないように思われます。
こうして利休はまったく飾らないそぎ落としたその美を愛したのです。
飾らぬ美質素な美底に侘びを見出した。

★また、私の感情を移入させますが、村田珠光から形が作られかけてその形を利休が茶室と茶碗なども共に侘びとさびのまったく飾らない、左右同一でないそういった不規則であり不必要を極限までそぎ落とすことに力を入れたそこで得た詫びさびがだんだんその姿を表せてきたのだとおもっています。現代の裏千家表千家の流派においても基本は変わらず茶道の道からは独立した流儀になっているそれはおのおのが確立して行った茶道そのものの形態だとおもう。
裏も表も同じく利休の形態を重んじ詫びさびを重んずる流儀であるといえる。
いつの世までも語り継がれ受け継がれていくべき利休の真髄が脈々と広がっていくのです。


千利休によって完成された 茶道とは一体何だったのでしょうか。

茶道は、現代でも日本文化の象徴のように言われます。
今日のように、グローバリゼーションが進む世界にあっても、茶道は、世界に通用する文化して世界から認められています。
これは、茶道が、当時の国際都市堺ではぐくまれ、完成されたことと無縁ではないと考えられます。
利休が完成した茶道とは、利休が見つけた日本の美であったのではないでしょうか。
利休以降、四百年にもわたって茶の湯が日本人の心とらえて離さないのは、茶道が、日本文化の本質に触れる部分を持っているからではないでしょうか。

千利休は、草庵茶道、すなわち侘び茶道の完成者とされています。
目立たない調和のとれた美を、追求したといわれます。
日本の茶道は日本文化を、欧米文化や中国文化と比べたときの際立った特色であるといえるのではないでしょうか。

千利休は、茶道の完成者であると同時に、日本文化の再発見者であったと位置付けることができると思われます。
利休亡き今も脈々と利休流の茶道は、広く受け継がれていきます。

まず、利休七哲といわれる武士階級へと受け継がれます。
織田有楽、細川三斎は、忠実に利休茶道を継承しようとしました。
町人の茶道を当時の武士達が受け容れたのは、単に太閤秀吉の権威に従おうとしたことだけではないように思われます。


秀吉は、利休茶道の本質を理解していなかったように思われます。
茶頭を選ぶ際の逸話は、秀吉が津田宗及と利休の違いを理解していなかったことを窺わせます。
利休が晩年になってますます日本の美を追求する姿勢を強めるに従い、二人の価値観はどんどん離れていったように思われます。

★本質が異なる二人の茶道おのずと開いていったと思われます。また秀吉においても当時置かれていた立場背景にも大きく茶道への心が揺らいだものと考えます。
黄金の茶室に見られるように黄金文化を好んだ秀吉と竹の花入を愛した千利休とは結局相容れなかったのでしょう。

★(黄金の茶室に関しては当時の武将からもさまざまなそしりを受けています。)しかし秀吉は黄金の茶室をなぜ作ったかとゆうと権力を誇示する必要があったのだろうと私は考えます。
年をとりますますわが子の幼さに心痛める日々ではなかったかと思います。
残していくわが子に権力をそのまま渡したいと願ったのも真実だろうとおもう。


利休流の茶道は、一人の鬼子を生み出します。古田織部です。
利休の弟子の中で古田織部は、際立った特質を見せています。
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古田織部の茶道を、どのように捉えたらよいのでしょうか。
古田織部は、動中に美を捉え、織部の茶道は、武人的な本質から生じたものだとされています。
また、織部は、目につく美をあらゆる形において表現しようと努め、その好みは武家風の雄大な力強いものであったとされています。
 
★目立たない調和のとれた美を求めた利休の茶道とはあまりにも違う織部の茶道は、どのように利休の茶道につながるでしょうか。おそらく、日本の美を追及しようするという利休茶道の本質を、古田織部ほど感覚的に理解していた弟子は他にいなかったように思われます。
利休の美を理解した上で確立したのが古田織部の織部流茶道ではなかったのだろうか武士茶道といわれますがその美の根源はやはり利休の詫びさびから出発しております。


★しかし武士茶道は利休のような繊細な感覚を持ち合わせていなかった織部は、自分流のやり方で日本の美を追求しようとしたのでしょう。今日でもなお、織部好みの茶道具がわれわれを日本人の心をとらえて離さないのは、それゆえではないでしょうか
、織部の持つ特質としては武士であり茶人であり、陶芸家でもある多面的要素が加わる茶道武士としての雄大な茶道いくつもの局面を持った織部の茶道への心の入れ方はまたおのずと利休の詫びさび、極限までそぎ落とした形と相反するように見えるのも納得がいく気がする。
私はどちらかと言えば利休が大好きでその愛した確立した詫びさびの極限の美が大好きです。
だからといって、織部の古田織部としての茶道の美しさも非評価するものではありません。
特に古田織部が作り出す織部焼きの魅了されるものです。
逆に双方のよき面を理解し茶道を比べあいそのお互いの美に触れるとき心癒されるのです。

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戦国時代をを生き抜いたのは、武将だけではなかった・・・・・茶人もまた!!

小堀遠州:竜安寺方丈庭園に見る四つの石庭の謎!!および秘話。
末尾記載にて抹茶デザート ”抹茶のパウンドケーキ”  の作り方を照会します。柔らかでとてもおいしいです。ぜひお子様とご一緒に作られたりすると喜ばれる一品になりますお試しください。


時代に翻弄され権力に翻弄されたのは武士だけでなく代々茶人もそうであった。

今回記載する小堀遠州は武士であり茶人。
また見事なまでの庭園を残している、その中で宇宙を現したといわれる竜安寺:方丈石庭の謎まずこれを解いてみたいと思います。

幅25メートル、奥行き10メートルの細長い敷地に15個の石が5・2・3・2・3と配置した「代表的な枯山水の庭園で禅の美を極めた空間」まさに、小宇宙をあらわしたものと言われている。

1.刻印の謎  石庭の裏に刻まれた…。
作庭は室町時代と推定されていますが、作者は、「相阿弥説」他諸説があります。庭石の裏に刻まれた「小太郎・口二郎」の刻印さえも作者と判定するには憶測の粋をでません。

2.作庭の謎  大小15個の石の構成はどういうことなのか?
わずか75坪の白砂の空間に、大小15個の石を配置。一般には「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」と呼ばれる。大海や雲海に浮かぶ島々や高峰、「心」の字の配石、また小宇宙をあらわしたものと言われる説もある。  

3.遠近の謎  右奥に向かって塀が低くなるように作られ、
「遠近の謎」一見水平に見える石庭ですが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで排水を考慮した工夫が施されている。
また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。
ここにもまた錯覚を利用した演出が見られる。視覚的に奥行きを感じさせるために、土塀の高さを計算し、遠近法を利用した高度な設計手法といえる。
この石庭の設計で計算されている遠近法がこの数百年前に確立したといえそうだがまさにすばらしいものです。
75坪の庭がまさに広く雄大に感じますから見ていて心安らぐ要因ともいえます。


4.土塀の謎 
「土塀の謎」モノトーンの空間を囲む、高さ1m80㎝の土塀。
油土塀と称するこれもまた、石庭を傑作とならしめる重要な構成要素ですが、この油土塀とは菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られており、白砂からの照り返し防止や、長い風雪、環境変化に絶えぬく、非常に堅牢な作りに仕上がっている。
石庭面は、外側の地面から80㎝ほど高い場所に位置する。これも強固さを保つための工法上の工夫によるという。


これだけのすばらしい技術を駆使して作られた方丈石庭はまさに現代にもつうじる建築の推移を保っていたものと思われる。

戦国の世から千利休・古田織部と茶道を支えた賢人たちが自害に追い込まれた。
その背景には権力者が権力を保持するための画策もあったろう~~~。
力に翻弄された時代を通り過ぎた茶人が残したものとは何だろうか・・・・・・・・。
現在裏千家・表千家が利休の子供たちにより脈々と受け継がれている、確かにそこには離宮が確立した侘びさびの世界を見ることができる。

しかし茶道としての姿は残せても真に利休の伝えたかった心の奥底に去来した真髄とはほんとに残せたのだろうかと疑問に思う。
実際私も茶道を習い現在も春と秋の茶会には招かれる、そのときによく利休や織部のイメージが浮かんでくることがある、ふと上を見ると床の間にさりげなく一輪花が飾られどこの茶室もにじり口は、利休の設定した狭い入り口となって形は伝えられている。

さて!!今回は利休・織部亡き後の茶道界を支えた人物小堀遠州を記載します。
織部と同じく遠州も父が茶道にかかわりを持っておりました。

小堀遠州自画像
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小堀流”綺麗さび・茶の花”
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小堀遠州はその本名を小堀正一といい、滋賀県坂田郡南郷里村小堀(現在の長浜市)で生まれたといわれています。
(1608)に駿府城建設にあたっての作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれようになったようです。

遠州は、江戸幕府の作事奉行として当時の桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園に才能を発揮、また大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園です。
南禅寺金地院は、私も撮影で数回出かけ拝見している庭です。
緻密に計算された庭にて見事な自然をつくっています。
また安土にある教林坊の庵、ここの庭はまさに見事四季をいっぱい庭いっぱいあつめたとでもいいますか、余すところなく日本の和・美・わびさびを持って自然をうけいれている、まさにそんな気がします。
特色としては周囲を竹林で囲っているまさに私たちが癒しと思える日本の美がそこに存在していました。

また茶道を古田織部に学び、三大茶人と呼ばれ、遠州流茶道の創始者となり、三代将軍家光の茶道師範を務めたように多才の持ち主であったようです。
こうしてみると徳川家康は自害前千利休を指南とし、徳川秀忠二代将軍は、古田織部を指南とした。徳川家光三台将軍は、小堀遠州、それぞれ戦国時代に当時の権力者に使えたといえる。
ゆえに、時代と権力に翻弄された茶人たちともいえる。

小堀遠州は茶道も見事ながら当時の権力者の指南役を務めていましたが、また造園に深く関心を抱き、当時国外の宣教師に庭園についておそわっています。
今まではわが国は日本の美わびさびの世界の質素ながら美をかもしだす庭園が主流でした宣教師たちにより海外に見るまた日本と違った庭園の作園法も学んだといわれます。

今回はこの小堀遠州があの京都の龍安寺の石庭を作った人物ではないかと推理した宮元健次著の「龍安寺石庭を推理する」という興味ある本を読みますます、龍安寺の石庭を造った人物が小堀遠州ではないかと思ようになりました。
これまでいろいろな研究者がこの龍安寺の石庭を造った作者を調査していますが、未だ決定的な結論が出ていないようです。

龍安寺は、1975年に英国のエリザベス女王が訪れ、石庭の庭を絶賛したことから世界中にこの話しが広まったとされています。
それまでは日に数十人しか訪れなかった静かな寺が、一夜にして世界的に有名になり今では日に1000人も訪れることがあるような名所になってしまったようです。
しかし実際は京都の禅寺の中で妙心寺は当時のいわゆる京都五山(天龍、相国、建仁、東福、万寿寺)に列さず、禅寺の中でも一番低い地位に甘んじていたことから、妙心寺の末寺である龍安寺の地位も押して知るべしであったようです。

龍安寺の石庭(数年前に撮影した写真です)

枯山水真正面・縁側よりの風景
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縁側正面より翌年の撮影写真
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正面庭園より少し右に目を落とした山水(宇宙を表現しているといわれる)ryou3


■ぐるっと庭園に大回りしました話をもどします

徳川三代将軍家光の茶道指南を命ぜられた小堀遠州、
徳川家光に小堀遠州を推挙したのは、黒衣の宰相とも呼ばれた京都南禅寺の金地院崇伝だと言われています。
古田織部が徳川秀忠の指南役だった、小堀遠州は徳川家光の茶道指南役でした。
とくに、品川・東海禅寺における徳川家光への献茶は、小堀遠州が幕藩体制における茶道権威の象徴として、万人に認識された出来事でした。
このあたりで小堀遠州の実力とゆうか少しずつ威光がめだちはじめるのです。


小堀遠州の好みを「きれいさび」と表現しますが、古田織部が不定型で非対称の美を求めたのに対し、小堀遠州は均整がとれた都会的で洗練された美を表現しました。
茶道に忠孝という封建道徳を取り入れ、幕藩体制の茶道観として受け入れられていくことになります。
そして、大名たちは、こぞって小堀遠州に入門します。

小堀遠州の茶道を習わねば茶道にあらずとまでの世間の風潮があったようにいわれています。
四代将軍・徳川家綱の頃になると、すでに小堀遠州は亡くなっていたものの、大名茶道と言えば遠州流が一大勢力となっていました。
そんな中で、徳川家綱の後見役で叔父の保科正之が師事していた片桐石州の茶湯が勢力を伸ばします。
どんな時代でも権力は脈々と移行しうつりゆく、絶えることがないようです。


★小堀遠州秘話
壮年を迎え、茶道においても円熟期に入った遠州は、織部なき後の天下一の巨匠と自他共に認める存在となり、茶の湯指南役として将軍の信任も厚かった。
しかし、すべてが順調ではなく、経済的な危機もあった。
理由は不明ですが遠州が公金一万両を横領それが人に知られることとなったそうです。そのとき酒井忠勝をはじめ、遠州に批判的であった細川忠興までが遠州を失うことを惜しみ公金返済の資金を提供したという。
それだけ利休・古田織部亡き後の茶道界において、まさに小堀遠州の存在が各大名たちにはおおきかったのだろう。




小堀遠州亡き後
保科正之が柳営茶道として石州流を紹介していった意図は、勢力が大きくなり過ぎた小堀遠州の系統に対抗するためとも言われ、やがて片桐石州は徳川家綱の茶道指南役となり、徳川家綱に点茶を献上するまでになります。

こうして時代背景とともに茶道を眺めていくと将軍が変わり指南役が変わる、また茶道の心得が少しかわり、何が好まれて言ったかがよくわかります。
茶道の詫びさび利休が確立した茶道も指南する茶人により右へ左へと揺らぐものだと感心するばかり。
時代と権力に翻弄されそれを操るこの時代にため息が出そうです。


小堀遠州は茶道は小堀流をつくりまた造園庭園つくりに見識があり見事な庭園を作り上げたじんぶつでもあります。
例をあげると、二条城二の丸や江戸城の庭園・名古屋城の庭園・松山城の庭園、特に遠州が備中国奉行のときつくったのが頼久寺庭園であり、国指定の「名勝」として知られている。




■抹茶のパウンドケーキの作り方keki

<材料>
バター・・・・・・・・・・・・・・・・100g
砂糖・・・・・・・・・・・・・・・・・・90g
卵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100g
※Mサイズなら2個がいいとおもいます

ブランデー・・・・・・・・・・・・・・・5g
薄力粉・・・・・・・・・・・・・・・120g
ベーキングパウダー・・・・・・・・・2g
抹茶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3g
牛乳・・・・・・・・・・・・・・・・・・30g

■作りかた

■ 下準備です
バター・卵は常温に戻しておいてください。
粉類(薄力粉・ベーキングパウダー)は合わせてだまになっていないようにふるっておく。
抹茶は、よく濾しておく。(さらさらにしておいてください)
型に薄くバターを塗り強力粉をはたいておく。
オーブンを170℃にあたためておく。(少し早い目に余熱にて暖めてください)


■ 生地作りです
常温に戻したバターをクリーム上に練る。
砂糖を加え白っぽくふんわりした状態になるまでよく混ぜる(粉がだまにならないよう注意)

①全卵を少量ずつ数回にわけ加え、その都度ハンドミキサーでしっかりと混ぜ合わせます。
しっかり粉を混ぜ合わせていないと作ったときのケーキの生地が荒くなります滑らかにするためにしっかり混ぜてくださいね。

②粉を1/3加え軽く混ぜて、ブランデーを加えます。
ブランデーを少し加えると焼き上がりがとても香ばしくおいしくなります

③粉を加え、ゴムベラでさっくりと混ぜ合わせます。
軽く混ぜてくださいね。

④粉っぽさが少し残るところで、牛乳を加え混ぜる。
さっと混ぜ合わせますが牛乳は少しずつゆっくり入れること。

⑤生地を少量別のボウルに入れ、抹茶を加えよく混ぜ合わせる。さらに生地の1/3を入れて混ぜ合わせる。

⑥2つの生地を1つのボウルに入れて、3回ほど混ぜる。混ぜすぎるとマーブルじゃなくなるよ。
ここでの混ぜ方はさっと簡単に生地の色が縞模様になるようにしっかり色が解けるくらい混ぜると、出来上がりの風合いを損ねます。

⑦型に生地を流しこみ空気抜きをする。170℃のオーブンで約40分焼く。
余熱で暖めておく。

⑧竹串を刺してドロッとした物がついてこなければ焼き上がり。
竹串を突き刺して取り出したとき粉の生地が生の状態がついてこないようなら中までしっかり火がとおっております。
あまり焼き過ぎないように見ていてくださいね。

ポイント
あまり生地を練りすぎないこと
最初にオーブンを加熱しておくこと
作成してから数日2日位してからのほうが生地が落ち着いて味もしっかりしてきます
一度に食べきれないときはラップしておくとい~2週間は持ちます、電子レンジで暖めていただいてください

■出来上がりのケーキにホワイトクリームを乗せてもおいしいです。
■また濃い目の日本茶には上に小豆を少し乗せていただいても格好のおやつになります。



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時代を生きた古田織部の葛藤と苦悩

「利休の侘び茶」に対して「織部の武家茶」と称され戦国の世を生きた茶人・・


末尾に抹茶デザート”抹茶スフレの作り方を記載します
簡単でおいしく喜ばれること請け合いです・・・・・・ぜひ!作ってみてください



古田織部その人・・・・美濃の国、現在の本巣郡本巣町に生まれた。
父は初め勘阿弥といい、後に還俗し秀吉に仕えた古田重定であり茶の湯の達人であった。・・・・・・


織部の幼名は不明であるが、文献に登場する初名は景安といわれたそうです。
後、左介、古左、従五位下織部正重然と数回改名しています。
通称名は「古織」である。

茶人としての古田織部自画像(書籍引用)
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武将としての古田織部(書籍引用)
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小堀遠州の父小堀新介正次が茶人であったように、遠州と同様、織部は父から茶の道を学び成長したと思われる。
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。
秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。
このとき家康は徳川幕府を世襲とすることで早く秀忠を将軍にすえた。歴史が書いてあるとおりだと思います。

しかし利休と同じく、茶人、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。

古田織部最終的には“夏の陣”のあと切腹を命じられ、家財全て没収、一族全てに処罰という厳しい結果となる。
しかし、織部の最期は「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに自邸で切腹した。
その見事さに茶人仲間は魂を静かに追悼したといわれる。
あれだけの人材をこともあっさりと切り捨てる当時の権力の使い方の情けなさ今も情けなく思える。

何とも男らしい男“古田織部”… 最期の最期まで興に生きた  男・・・・・・茶人とて男だと評したい。


利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。
徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休は詫び茶・古田織部は武士茶それぞれに詫びありさびありの世界だったろう。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り今や世界各国の千家の茶室で多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

利休死すとも詫びさびは残れり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


古田織部亡き後綺麗さびといわれる茶道の小堀遠州が指南を勤める。


小堀遠州作ちゃわん(利休は詫び茶・織部は武士茶・遠州は綺麗茶でした。
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小堀遠州が後に作った庭と庵滋賀県安土、教林坊
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まず古田織部について詳しく紐解いていこうと思います。
大雑把には上に記載したとおりがストーリーです。


武勲をたてたのか、この年、織部は、摂津の国茨木の城主、中川清兵衛尉清秀の妹「せん」を正妻に迎えています。
褒章として山城国久世荘の代官となり、摂津の国東倉垣内西園郷に300貫匁の領地を与えられています。

千利休と古田織部とのつながりが生まれたと思われるのは、信長が死んだ本能寺の変の後と言われる。
中川氏と一緒に明智光秀の軍を討伐したことから利休と知り合ったといえそうだ。

本能寺の変以後時代と歴史は大きく変わった、埋もれるはずの人が大きく世に羽ばたいた時期でもあります。

その数年後武田勝頼をせめたおしその後、大阪城に新築した秀吉の茶室で茶会が催される。
千利休、今井宗久、津田宗及の3名が宗匠として開催された茶会の連客の一人として織部の名が記されている。 
このころの織部は、茶人としては、まだ認められていなかったようである。

このころの古田織部はまだまだ茶人としては認められた存在でなくまだまだ武将の名前が先立っていたといえる。
しかしこの時期から五年後、4月秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰いだときに織部も同席した。
だいぶ茶人としての織部が顔をのぞかせはじめたといえそう。

秀吉、利休を追放。2月28日利休、秀吉の命により自害。
秀吉の追放令をうけて京都不審庵を出、船で淀川を下る利休を見送ったのは、織部と細川忠興だけであった。
利休死後、織部は茶道を受け継ぎ、織部独特の茶道文化を築き上げていく。
秀吉は「利休の茶は町人の茶である。町人茶をば武家風、大名風に改革せよ」と織部に命じた。

このとき古田織部は何を感じていたのだろうか。
私なりに解説してみると師・千利休を自害させたのも秀吉で、いま町人茶でない作風を作れと命じているのも同じ秀吉、きっと古田織部何とこの世ははかないものか、自害を命じたこの人の命に従わざる得ない自分がなんと惨めなことか・・・・・・・・・・・・・とおもうのですが、織部はどうかんじたのだろう。


その翌年には秀吉は朝鮮へ出兵する、織部は御伽衆の一人として秀吉に茶を指南する。
織部は後備衆として名護屋の本営に従う。
朝鮮から連れ帰った陶工を中心に唐津焼を指導。

古田織部が焼いた織部焼き(へうげものといわれる)
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このあたりから秀吉と織部の関係はいっそう蜜になっていきます。
戦乱も一時的に治まり、織部は京都伏見にいて、全国諸大名に茶道を指南する。
当時の地位としては各大名に茶を指南するのはそれなりに位もあがったといえる。
しかし1958年8月、秀吉逝去。
織部は秀吉死後、山城35000石を重広に譲り隠居する。
織部55歳、伏見の自邸で茶三昧の生活に入る。

しかし世の中とは騒がしいもの、隠遁した織部を静かにはさせてくれなかった。
関が原の戦いで徳川方が勝利。
その後天下を平定し、3年後徳川幕府が始まる。
織部は、家康から10000石を与えられる。この頃から、茶の湯の名人として天下に名声をはせる。
諸大名は、その多くが織部の門人となる。
このころには昔の利休の権力に似たものを保持し始める。
言い換えれば段々命も危ぶまれだすころでしょう。
とかく権力が先行すると人からねたまれるものでしょうに。

織部邸の茶会に徳川秀忠がまねかれた。織部63歳。
この年、織部は多くの茶会を催している。
茶会には今焼きの角皿、壷、唐津焼茶碗、今焼き羽鳥の香合が使われた。

伏見の自邸での茶会は、頻繁に催され訪れる客も大名や神宗湛などの豪商が多い、茶会では黒織部の茶入れ、黒茶碗、備前の水指など、唐物中心だった茶器から、自らが手がけた窯所のものが多くなっていく。

このあたりの茶器の扱いも亡き利休のやり方にだんだんに始めてきた。
またこの時期あたりに江戸の秀忠に茶の指南を頼まれ江戸に赴くことになる、また秀忠の娘千代姫が細川家に嫁ぐときも付き添っていったと書物に記載されている。
やっと織部が江戸から帰ってきたのが織部70歳のころ。

ここで織部人生をかけた大事件が勃発する
8月茶会に「国家安康」の鐘銘を草した清韓和尚をもてなしたため、家康の怒りに触れる。
10月家康、大阪冬の陣に駿府を出陣。織部は名古屋まで迎えに行った。

しかしここで思い出してみよう。
この戦国の時代茶をたてるも命がけと利休じがいのおり古田織部が言った通りその言葉に今従うようなことが自分の身起ころうとしている。
まさにいいがかりであろう。
あまりの織部の権力が増したため疎まれただけであろうに、世の中とはまさに無情だとおもう。
くぐるただそれだけのことで切腹を命じる何と切ないことか。

しかし先にも書いたとおり

「かくなるうえは 申し開きも見苦し」

まさに武人であり茶人見事なさいごだったといわれる。
遺骸は大徳寺玉林庵に葬られた。
家康は織部一族を処罰するとともに家財全てを没収し、織部の全てを抹殺した。
大名・町民はこの難の及ぶのを恐れ、織部の意匠となる茶道具を処分した。
家康が織部の全国大名に対する影響力をいかに恐れていたかが、「織部の抹殺」を徹底して行ったことから分かるような気がする。
織部の娘は一人あり、浪人鈴木左馬助の妻となっている。
ただし古田織部の家系は娘せんによって脈々とうけつがれたといわれます。


こうして長き人生武士権力者に翻弄された人生を送る二人の茶人どんな目で今の世界をみているだろうか。
ただ茶を愛しただけ、周囲が持ち上げただけ権力は権力者から授かったもの、当人たちは静かに一服の茶を楽しみたかっただけではないだろうか、それが茶道に精通する侘びさびの世界ではないだろうか。
私はこの戦国の時代において茶人たる道はどこにあったのだろうか????

「織部の抹殺」からわかるように、権力を持って世を治めるものは権力により滅ぼされる因果応報のことわりあり。
わたしはそうおもう。
歴史的に多くの人物が歴史に権力にほおむられている、平家物語ではないですがまさに、諸行無常だといえそうだ。




抹茶スフレの作り方

suhure
(材料)
ホワイトチョコレート 90g
牛乳 90g
抹茶 12g
薄力粉 20g
卵白 4個分
卵黄 2個分
グラニュー糖 36g

【下準備】
抹茶と薄力粉はだまを作らないためにふるっておきます。
ホワイトチョコはすぐ解けやすくするために包丁で細かく刻みます。
オーブンは150℃に余熱であたためておきます。
型の底部分に敷紙をおく。

牛乳を温めて細かく刻んだホワイトチョコを少しずつ入れて溶かす。
卵黄にグラニュー糖の半量を入れてよく混ぜ、1を少しずつ入れて混ぜ合わせる。
ふるいにかけた粉類を入れてよく混ぜ合わせる。
卵白にグラニュー糖の残りを入れてしっかりとしたメレンゲを作る。(少しずつ入れること)
2にメレンゲの1/3量を入れて泡だて器で混ぜてなじませる。
ゴムベラで残りのメレンゲを2回くらいに分けて混ぜる。
お湯を張った天板で150℃45~50分焼く。
(型の周りはアルミホイルでカバーしてね♪)
焼きあがったら型のまま冷まして冷蔵庫で冷やす。

これで、完成少し温かみがあるくらいが一番食べごろのおいしさかと思います是非つくってみてください。

アレンジいろいろ

■粒あんをはさんでもおいしくいただけます。
■ホイップクリームをはさんだりホイップの中にフルーツを小さくきって挟んでもおいしくいただけそう。
■日本茶に会う感じには、粒あんがいいかもしれません。
■お子様向きにはワッフルのようにホイップクリームにイチゴのスライスをはさんだりその上に小さなミントを飾ると彩りも鮮やかで喜ばれそうですよ。







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利休時代を生き抜いた心とその人間関係
人を愛し茶を愛し、揺るがぬ心で生き抜く・・・・・・。奥底に秘めたこころとは?



抹茶チーズデザート
末尾にデザートレシピの作り方を記載します、お子様とご一緒にお作りくださいきっとよろこばれます。




堺の豪商の跡取りとして生まれた利休は幼少時から将来を見据えた風格を備えるためあらゆる帝王学のようなものをみにつけたといわれる。
人となりを磨き心を磨く努力また多方面においても品格ある行動と発想を磨き、利休自ら作り上げた、品格と人柄は後に茶の湯を通じ侘びさびを育て確立したと思います。

人が一生を生きるためにすること
それはまたとても難しくその人本人が気がつかないと絶対なしえないものでもありそうです。
利休は自分にも厳しかった、弟子たちにも規律厳しさを実行したと伝えられておりますが、自らを律詩ないと茶の湯を極めその頂点に立つためには必要な心構えがたくさんあっただろうと推察できる。

利休は戦国時代の名のある大名たちと茶の湯を交え交流ができる、では織田信長との関係はよき関係との説があります。

では、後の豊臣秀吉”秀吉”との関係はどうであったろうか・・・・・・・・?
少しずつ利休の心を蝕む・・・・・・・そんなこともあったようだ。
人間上に立てば立つほど謙虚さが必要となるものだけれど、かなしいな~~~、秀吉目がくらむかな?
いろいろな映像書物をみても、晩年はやりすぎの感もゆがめなさそうだ。

一父親としてなら理解しえるが、天下人であるからゆえに評価も厳しく出るのだろうか。


利休と秀吉の蜜月は茶の湯の最盛期となった「北野大茶湯」をピークとして、徐々に歯車が噛み合わなくっていく。
秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。
これは信長でさえやらなかったことだ。
前にも記載したことですが・・・・
堺とゆう町は境商人たちの自治区であり商人たちの結束で統治していたくいきです、その周囲の壕を埋めてしまうなどと暴挙はあの感情の激しかった信長でさえしなかったことです。
堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく思った。

1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ即日処刑される。
この件は歴史的にも確かであり書物にも残されている、あまりの秀吉の暴挙に驚かされる事件だろう。

利休は、嘆き悲しんだといわれるが、茶の湯に関しても、秀吉が愛した派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。
秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

対立の日は重なりて・・・・
利休と秀吉基本的心のありようがかみ合わない二人、いつかは大きな問題へと、発展する危険が起きるであろう事は、わかっていたことかもしれない。

これから大事件へと勃発することが起こる・・

そして翌1591年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と利休は平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。
他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
このときも秀吉は利休に茶碗に関してあれこれ詰め寄ったといわれるが、平然と利休は話したといわれる、茶人心穏やかに乱すことなく平然と返答する利休に秀吉、内心心穏やかでなくしかし処処の面々の前、それなりの対応はしたと伝え聞く。

9日後の22日温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。
秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。
利休は最大の後ろ盾をなくした。
秀吉の弟・秀長彼は秀吉が、足軽時代から何か兄秀吉を支えてきた功労者でもある。
秀吉もさすが秀長の、言葉には一目置くほどだった人物であり、秀吉の弟・秀長を失ったとゆうと、誰も秀吉に提言・苦言を呈するものがいなくなったと同じであるl。
また北の政所ネネさまも苦言はしっかりと提言した人物であり、こちらは後の徳川家康も一目置かれる人柄であったと伝え聞く。
これからの秀吉はわがままし放題となりえる条件がそろったことにもなる・・・・

それから1ヵ月後の2月、利休は突然秀吉から「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」と命令を受ける。
利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。
大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。
秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリと分からせようと思っていた。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(ねね)か母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。
だが、利休はこれを断った。
「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはずだ。
秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになる…。利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。

この事件はゆうめいだけど、まず最初は誤れば許すしかし上下関係はしっかり自分が上と、誇張したかっただけの傲慢振りが見えるl。
利休は茶の湯にふれ、人となりを磨きそれなりの人物になっていたからこそそれを曲げてまで、権力にゆうがまま屈することはできなかったのだろう、このことにおいても真に茶人そのひととなりがわかるのです。


利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達し爆発した。
利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

新しく架け替える前の一条橋
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新しく架け替えた橋
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それでも誤りにこない利休に秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。
織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そしてこの日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。
利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は切腹して侘びよとの命令だった。

なんと天下人ともあろうものが傲慢慈悲のかけらもない・・・・・・。
私は実に悔しくあの利休のような人材を人生半ばで失うことは本当に大きな損失であったと思います。

このとき有名な伝記に利休は介添えに来た武士に茶を立て、一服してからゆっくりおもむろに自分から腹を切りはてたといいます。

享年69歳。利休の首は長く晒されたと記載があります。
苦労日とでもあった秀吉人生を生き抜くすべを学んだはずの天下人が残した人生ただひとつの大きな汚点秀吉はこの事件を残りの人生をかけてつぐなったといわれる。

豪華な茶室はつかわず、侘びさびの世界に入りそれを愛しまた自分からそのような茶室で茶をたてあいしたといわれる。

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き長男秀頼を思いつつ人生の終焉を迎えた。
其の最後の秀吉の心意去来したものはいったい何だったろうか~~
①茶茶、淀君への思いだったろうか・・・・
②残して行く夫人ねねのことだろうか・・・・
③まだ自分を尊敬しない人物がいることをくやしがったろうか・・・・
④残していく幼い秀頼のことだろうか・・・
⑤自分が思うままに動かした兄弟たちの侘びだろうか・・・・
私はそんなことなどでなくやっぱり利休と話をしたと思う。
死の瀬戸際において思い描き話をしたのは利休ではないかと私は推察している。人間実際死に直面するとやはり去来するものは一点の許されない汚点だったろうかと思う。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。
こういった人生わずかな後悔の念を見て取れる行動が物語っていると思える。

さらに1615年。
大坂夏の陣の戦火は堺の街を焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。

このとき冬の陣・および夏の陣。
徳川家康は秀頼を上がらせて実質どのような人物かを見定めた。
其の対面でとるに足らぬ人物なら殺す事までは考えず諸大名扱いでいいと考えていたと聞きます、実際にあった秀頼の感想はあまりにも利発であり人望を集めるそのような優れた人材だったと見たらしい。

それゆえに秀頼は短い人生をおわることとなった。
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話は変わり利休の切腹後・・・

利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。
秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南したが、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。(この時代、茶をたてるのも命がけだ)
この戦国武士が横行する時代にあり、静かなる茶人が権力を持ち始めると戦国武将たりとて、其の権力力の及ぶことを恐れたといえる。

ここに私が愛する古田織部も切腹して果てることに・・・・・・・私いわく・嘆かわしく悲しい時代だろうか。


利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。
徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休の子孫は、大徳寺にいた孫の千宗旦が家を再興し、宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、

武者小路千家官休庵
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三男・宗佐が『表千家不審庵』を、(表千家資料より)
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四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。


利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

ここに戦国の世を生き抜いた武人と茶人の人生の幕引きとなる。
互いに何かを愛し志を抱き前進しつつ苦悩の多き時代を生き抜いた賢人たちに私は現代から残されたものを見聞きして尊敬の念と業績の偉大さにいまさらに関心と心ときめき書物を見聞きするものです。
戦国の時代において生きた人々の思いを知りそれを後世に残すべく働くのも今の現存する人類がやらなければならないことでありそれも使命だと痛感する。
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※小堀遠州、秀吉亡き後家康に用いられたのがこの人。またすばらしき庵など庭園など残しております。上
記残り記載と一緒に交えお伝えできればと思います。




抹茶チーズデザート

■材料

抹茶 ・小さじ 1
クリームチーズ ・ 80 g
砂糖 ・小さじ 2
プレーンヨーグルト ・大さじ 1
バニラアイス ・ 1 パック (200g)
ゆで小豆 (缶) ・大さじ 2
イチゴジャム ・小さじ 2

①抹茶チーズのクリームチーズ、砂糖をボウルに入れて柔らかく練り混ぜる。
②抹茶を茶こしにゆっくりと通しながら加える。
③つぎにプレーンヨーグルトをゆっくりと確かめるように見ながら加えよく混ぜ合わせる。
④器にバニラアイスクリームを盛り、抹茶チーズ、ゆで小豆、イチゴジャムを盛り合わせ、クッキーを添える。
⑤最後にデザートの上にミントの葉を一枚添えると風味がとてもいいですよ。












テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真

千利休と古田織部
二人にかかわった豊臣秀吉その人生の指針と人間模様を背景とした茶の湯


世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)


記載末尾に抹茶で作るデザート”抹茶ババロア”をご紹介します、お子様のおやつ食後のデザートに手軽にできて簡単なよく冷えた、抹茶ババロアをおつくりくださいね




前回織田信長が商人自治区境の港町にかかわったところから今回は進みます。

天下人としての秀吉も茶の湯に心底から精通することはなかったのだろうと私は思う。
生まれ持った人生感とその人の進んできた道価値観が大きく作用するのだろうとも思う。

信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久、津田宗及、利休を茶頭茶の湯の師匠に重用した。


●私はいろいろな書物や歴史を見聞きし、利休の貫いた人生哲学および茶の湯の真髄にふれ、利休の持っている哲学のようなものを見た気がした。
利休は時の権力者秀吉の圧力にも屈することなく自ら死の道を貫いた、敬意を評しここに大いに記載したいとおもう。

利休は(51歳)、(53歳)と2度、信長主催の京都の茶会で活躍している。
信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。
彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。
必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。


このころから織田信長配下だある後の豊臣秀吉とも関係がつながるのですが、秀吉が一百姓からのし上がり一主人として茶会を主催するにはまだ力がありませんでした。
後に茶会を仕切りますが、その時代には織田信長が持っていた見事なまでの茶器、陶器など全部といえるほど、京都本能寺にて炎上して何もお宝になる品がありませんでした。
秀吉は根っからの派手好きそうした目だめがほしかったのもあるでしょう。
利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。

後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。
秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近、古田織部など優れた高弟が生まれた。

秀吉は権力は頂点に上り詰めても本来生まれ持った何かを変えることができなかっただけだろうか?
その何かはわからない血筋なのか・・・・?
百章としての長きに渡るものの考えなのか、秀吉個人の持っている価値観なのか?
多分後者のほうだろう・・・・・・・・・・・・・時の権力をはきちがえたらしい?

ここで織田有楽斎(信長の弟)について記載します

生年:(1547)没年:(1622.1.24)

安土桃山・江戸前期の大名,茶人。織田信長の弟。茶道有楽流の祖。
通称源五,名は長益。本能寺の変後,豊臣秀吉に仕えて御伽衆となり摂津の内で2000石を領し,天正18(1590)年剃髪して有楽と号した。

秋の有楽庵
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春の有楽庵
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文禄3(1594)年,秀吉の前田利家邸への御成に際しては室礼などを指導し,その名を高めた。
関ケ原の戦には徳川方に属して,大和で3万石を与えられた。
大坂冬の陣には淀君の叔父に当たることから大坂城に入ったが,なお家康との間の斡旋を続けた。
戦後は京都二条に隠棲し,夏の陣には加わらなかった。
その後4男長政に1万石,5男尚長に同じく1万石を分与し,残り1万石を自らの養老料とした。
(1618)年,京都建仁寺に正伝院を再興して移住。このとき院内に作られた二畳半台目の茶室如庵(国宝)は犬山市に現存。
茶の湯は利休に学んだが,むしろ独自の茶風を展開した。孫の長好や信長の孫織田貞置,さらに堺妙国寺の住僧で有楽の茶頭役を勤めた,祇園玄旦とも呼ばれた高橋玄旦らに引き継がれ,のちに有楽流が開かれた。
<参考文献>坂口筑母『茶人織田有楽の生涯』

現在愛知県犬山市に有楽庵たありこの茶室も利休の影響を色濃く残した、つくりとなっており四季折々に美をめでることができる、特に秋の紅葉では彩をめでる見事さを実感できます。
ぜひお出かけください。

話は元に戻ります
1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。
このことで、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。

翌年に大阪城で秀吉に謁見し、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服した大名・大友宗麟は、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。

※秀吉は茶会を好んだが、残念なことに本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。
そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。
天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。
この過程で利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない独自の陶法で樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。
武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった。
この当時利休が名品と言った茶碗はそのとおり名品となったことからいろんなうわさも横行したといわれる。
いつの世もねたみはあるもです。

1587年(65歳)、秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。

公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。
当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。
拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となった!秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。

■ここで千利休のお人柄がわかる話を書いてみます

夏の早朝に利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。
秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。
ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。
一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!秀吉は利休の美学に脱帽したという。

やはり利休は正しかった!!
朝顔の花時期はずれだけど話に出ましたから載せてみました。
やはりたくさん咲いて見える写し方よりも一個だけくっきりと後ピントをぼかしているからこそ、一個の朝顔が引き立つ。利休の茶の湯の真髄少し見た気がします。
この一輪の花にほかに咲いている全部の花の美しさが集約されているそんな思い出見ることができる。

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秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。

弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答『利休七則』。
「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。
当たり前のことこそが最も難しいという利休。

秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。
利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。
「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。


織田有楽の心情
一、相手に窮屈な思いをさせぬこと

一、相手に恥を掛かせないこと

一、相手に満足感を与えること


利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』この茶室は前回記載しましたが、今も京都に国宝として現存しております。(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。
彼が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
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■抹茶ババロアの作り方
ぜひお子様の手作りおやつとして、ご家族の食後の一品にお作りくださいね。

▼材料は4~人分です

ゼラチン(クッキングゼリー) 10g
卵黄     3個
砂糖     100g
塩       少々
片栗粉    小さじ1
牛乳     250cc
生クリーム  200cc
抹茶     大さじ2


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①ゼラチンをふやかす水を大さじ4杯にゼラチン10グラムを入れ湯煎する
(電子レンジに20~30秒かけてもOK)
注:夏場は氷を2~3粒入れておいてください。水が温まるとゼラチンが溶けてしまいます。


②ババロアの生地を作る1.ボールに卵黄・砂糖・塩・片栗粉を入れて白っぽくなるまでかき混ぜる
2.牛乳を温め少しずつ加える。これを鍋に移し変えて、かき混ぜながら弱火にかけ、沸騰直前に火からおろす。
3.粗熱を取り①のゼラチンを合わせる。漉して冷やし、とろみがついたら生クリームを加える。
4.茶碗などで、抹茶に50ccのぬるま湯を少しずつ加えながら溶く。これを3に加え、よくかき混ぜる。
※火加減は一番小さく鍋の中を見ながら丁寧に混ぜてください。ゆっくりと溶かしてくださいね。

③冷やし固める型に入れ冷蔵庫で冷やすと固まる。
冷蔵庫に入れる前にたとえばにんじんを薄くきりもみじの形に切薄く貼り付けて乗せてもきれいですよ。
※また少し固まりかけたときに牛乳を混ぜて色を変えて別にババロアの元を作り沖しておくと添えを星型(クッキーの雛形のアルミ)を差込上だけ流し込むとお子様が喜ばれるババロアが出来上がります。

④盛り付け型から抜くときは軽く湯煎する

冷やしたババロアを取り出すときは湯銭します。

型枠より大き目の入れ物に熱湯を注ぎその中にゆっくり入れて数分おきます。
あまり厚い温度とか長く置くとせっかく冷やしたババロアが溶け出します適度に様子を見ながら抜いてください。

テーマ:旅の写真 - ジャンル:写真

「茶の湯の極意は自由と個性なり」・・・・千利休の言葉



今回も末尾にて抹茶で作る ”抹茶ラテ” 作り方お教えしちゃいますね
今抹茶が見直されていますねぜひ作ってみてくださいとても簡単ですよ。



利休は天下人・秀吉を前に、死を命ぜられても恐れることもなく一歩も己の美学を譲らなかった!たとえ死すとも!
とても有名な歴史的記述の部分ですがまさに自分の美学を全うした人でもあった。

※千利休肖像画(堺市博物館写真引用です)
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徹底的に切り落とし侘びとさびを追求した人物でもあったまさに自分自身にもそうであったに違いない。
●利休作の竹の花入れ。わざとヒビ割れを正面にした大胆さ!
●利休が愛した黒樂茶碗利休いわく「黒は古き心なり」・・・地味な黒をよく愛した。
こうした質素な部分、まさに金をふんだんに使った茶室金を使わせて作らせた陶器秀吉とは異なる質実剛健そのものの美学があった。


千利休と古田織部・ともに時代を生きた茶人であり相通じるものがあった。
立場は違えども、千利休は境の茶道かであり織田信長・豊臣秀吉・天下統一前の徳川家康など大物と接触があり茶道を通j師の立場を築いていく。

一方古田織部は武士としての立場から見た茶道を花開かせて、千利休の門弟から独立武士茶道として、織部流を創設広めていこう。
また大物政治家当の茶道指南もしたといわれる。

古田織部は武士として大名であり、茶道家元であり、書家でもあった。


※利休とはまったくつながらないのですが、利休の行き方人となりはやはり尊敬できうるものがあると、私は思う。
質素であり茶の湯に関しては気持ち心はすばらしく豪華で美しくぜいたくだったろう。
四畳半の茶室質素なしつらえに、床の間にまた質素な竹を切っただけの花瓶にそこらで取ったであろう椿一点。

こんな歴史的話がある、秀吉が利休を呼んで茶の湯を仕切らせた。
当時秀吉は関白、秀吉が用意した茶室絢爛豪華きらびやかだったらしいが秀吉が思い描いた花は、豪華な花々を飾ってあると思って茶室に来たらしい。
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椿の花たくさんさすより花一輪の美しさ・・・・・・・・この美をめでたいですね。
しかし割れた鉢に、赤の椿それを剣山に刺さないで、そのまま水の中に横向きに寝かせた状態だった。

秀吉は怒ったといいます。
関白を招く茶室に似つかわしくない貧乏くさいと・・・・・・・・。
利休は茶をめでる心は質素でなくては心がにごると言われたそうです。

この返答に秀吉は返す言葉なく茶を飲み早々にひきあげたといいます。
不要な贅沢をいっさい切り落とした利休の茶道への心、悲しいかな秀吉にはわからなかったようです。



■千利休の茶道人生初期と古田織部が重なる部分とは

★千利休の生い立ちと初期人生の始まりを記載

●前編
信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。
本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。
当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国となっていた。そして多くの商人は優れた文化人でもあった。

利休の父は堺で高名な大商人であり、彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。
18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。

武野紹鴎(じょうおう)銅像(境博物館前に設置)
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紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。
珠光はあの一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。
大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していく。

紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、精神的充足を追究し、“侘び”を具体的に表現した。
利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。
また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物は禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。
利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省いてイブシ銀の緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。

ここで記載した侘びさびの極意世界観を持っているとゆうことになると、将来秀吉との角質は生まれるべきしてそうなったといえそうです。

●現存する最古の茶室待庵の外観
待庵の床(とこ) 待庵の“にじり口”現存する最古の茶室!400年以上前のもの(利休が設計)
もちろん国宝ッ!わずか2畳の茶室に質素な一厘の花、この小さな茶室は国宝であり、にじり口は小さく奥が真っ暗に見え世界がそこで一変した。
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この国宝である茶室の前の道路
実はとても利休が今生きていれば嘆き悲しむだろう景観をなしています。
茶室建物前にバス停がありとても残念。
日本最古の国宝級茶室なのですよ、もう過ごし名指しはいたしませんが行政の常識配慮のなさが嘆かわしいです。


※国宝三大茶室 ( 京都 妙喜庵の待庵 ) ( 愛知 如庵 ) ( 京都 大徳寺龍光院内の密庵 ) の一つ待庵について JR山崎駅前(京都)にある妙喜庵にある茶室で 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が千利休に作らせた(1582年)二畳隅炉の構造で現存する日本最古の茶室建造物です。千利休唯一の遺構といわれていて、妙喜庵(現在地)には、1610年移築 昔は建物はよく解体後移築していたみたいです


織田信長は先の文化発展のすさまじさに目をつけた・・・・・・・

文化都市貿易都市、自由都市・堺に目をつけたのが1568年に上洛した信長だった。
彼は圧倒的な武力を背景にして、堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。
そして、新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用しまくる。
ここまでにいたるまでに鉄砲を境の承認に注文したりと信長の野望も走りました。
沢山の鉄砲を生産させ自分の力を見せ付けると同時にその鉄砲で境をまるめとったといわれる。

ここから境自由としても織田信長の流れの時代に巻き込まれ
千利休も織田信長から歴史的人物へと変貌をしていくことになる
反していえばここから離宮の苦悩が始まるといえそうだ。



おいしい抹茶ラテの作り方

※作り方 用意するもの

抹茶(一人分2g:ティースプーン小山1杯)
牛乳(一人分40cc)
水・熱湯  茶せん
抹茶を立てる器(片くちカップおすすめ:電子レンジに入れられるもの)
コーヒーカップ等おもてなしする器


①器類は熱湯を入れて温めておきます(これは抹茶がぬるくならないために温めます)

②抹茶を点てます(入れてあった熱湯を捨て水気を布巾でふき取ります)
2~3人分1度に用意しても大丈夫です。熱湯は一人分40㏄位
(抹茶の点て方は「!きっとおいしく点てられる」を参照ください)

③温めてあったコーヒーカップのお湯を捨て カップに抹茶を注ぎ分けます

④次に泡立てた牛乳を作ります、まず 牛乳を人数分片くちカップに入れ電子レンジで温めます
(時間は器によってもかなり違うようなので 最初は様子を見ながら温めるのをおすすめします 熱いほうが良く泡立 つようです)
牛乳が温まったら茶せんで泡立てます。

⑤泡立てた牛乳を抹茶の上にそっと注ぎます、牛乳は上はふわっとした泡の層で 下はとろりとした層に分かれていますので少しづつ注ぎ分けるようにして下さい

⑥最後に泡をカップの中へそっと置いて落としてください。

※抹茶の分量に関しては好みがありますが牛乳とまじりますから、少し濃い目がおいしく作れるとおもいます。
夏などつくり置きしておきふいのお客様におだしするもよしとても喜ばれますよ。
冬の夜ほっとお茶タイム静かにいただくのも素敵な時間が作れそうですよ。





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陶芸に見る街道物語



末尾にオーブンで作れる陶器の作り方記載します、お手軽で簡単お子様と作られると楽しいです・・・・お子様と作るキャンディーポット



古田織部・・・・織部焼き

美濃の歴史とともに全国各地に散らばった陶芸の里・焼き物の歴史をたどる旅をはじめます。
昔から陶芸のメッカなんて今風だけど有名な土の出る地域陶芸の里はあちこちにありました。


陶工家であり・歴史的人物 古田織部に見る織部焼きの歴史をたどります。
あの引き込まれるようなグリーン深みのあるグリーンあの色に心奪われる自分がここにいる。


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織部焼きを語るに古田織部抜きでは絶対語れない人物であり織部焼きの元祖でもある。
武人であり大名でもあった織部は戦国時代を生き抜いた人物でもある。

千利休の高弟である古田織部重然を始祖とする流派であり織部は、茶道をもって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、利休流の茶を武家風に改めた織部流という一派を開いた。

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古田織部正は信長や秀吉に従えた武人ですが、茶道を好んで千利休に茶の湯を学び、利休高弟七哲の一人に数えられています。
利休亡き後もその名声は高く、徳川2代将軍秀忠の茶道師範を務めるほどの地位を得ました。
また織部焼、織部灯籠などにも名を残す文化人です。
武人としては、従五位下織部正に任じられ山城国西岡領3万5000石の大名となり、家康にも任えましたが、大阪夏の陣で豊臣方に内通したとの嫌疑により自刃しています。

利休相伝の茶の湯というのは、要するに、堺の町人の茶であるから武家にふさわしくない、利休流の町人茶をば、武家流大名風に改革せよ、と秀吉が織部正に命じた。
このとき改定した武門の茶が式正織部流の茶法である。


世の中は みなおりべとぞなりにけり 茶の湯にえいて正体はなし(雪間草)
(上記意味)織部がよしとほめると、それが炭入れだろうと、変哲もない木桶であろうとただちに高価に売買される。また、織部の造った数奇屋は常に天下一といわれ黄金百枚の値打ちをもって評価された。今日の言葉で言えば天下上げて織部ブームだったのである。


確かこういった風潮は千利休にも同じようなことがあった。
いや~~その時代にいたわけではないが歴史的に有名な会話にでてくるのですが、利休がこれはすばらしく見事な茶碗だと言えばどこかの百姓の家の土間に転がっていた器であっても高額の値がついたといわれる。
この会話でそういたわけでなく当時の時代背景に信長・秀吉・などと比べるとその上を行くほど茶人としての位があったそれだけ評価があったと見るべきなのです。


その特色は、現代の一般的な草庵の茶室で侘・数寄を強調する侘茶のせかいです
点前の前に手巾で手を清め、ふく紗も勝手用と道具用の二種類を用いるなどすべてに清潔を旨としています。

歴史的には千利休やその弟子の今井宗久などと方を並べます。
私が織部と出会ったのは岐阜県多治見の瀬戸物市場、多治見は陶芸が盛んで美濃焼きがつくられています。
家族で出かけた帰り瀬戸物市に出くわしてあの深みのある織部焼きに心うばわれてしまったのですが、いまだその感情は、薄れることなく現在も折にふれ機会あらば織部焼きを購入しております。

愛知県多治見市の瀬戸物市での楽しい話なのですが
販売していたおじさんがなれなれしそうに声をかけてきました。

”あんた~、陶芸家の古田織部って人物しってるかい・・・・”こんな感じに突然聞かれたのですが、当時はまだ詳しくなく、などと書くと体裁が悪いけど陶芸焼き物といえば有田焼、九谷焼、萩焼、備前焼ていどかな・・・・・

”いいえ知りません”こう答えたのですが・・・・・・それがいけなかったらしい。

おじさんいわくあんた~~買わなくていいから俺の話聞いてから帰りなさいって、いきなり承諾もなく話し始めた。
あれよあれよのうちに、このおじさん講談師かと思うほど話が非常に面白い・・・・・・・引き込まれていった。span>
散々話を聞いて気がつくと30分あまりおじさんの話に夢中になって耳をかたむけていた。
おじさんいわく、古田織部とは戦国時代を生き抜いた武将であり陶芸を編み出した織部焼きの元祖であり、また織田信長・徳川家康・豊臣秀吉・堺の茶人千利休などとも交流があり弟子でもあったと・・・・・・話がすすむ___

最後におじさん曰くこういった
"あんたいい勉強しただろ・・・・学校じゃここまで詳しくいわないよと"

フムフム!確かに落語を聴くような抑揚を挟み話すものだからついつい最後まで聞いてしまったではないか。
私としたことが、あ!!気がついたときは
おじさんこれが織部なのっと、質問をしていた。
同時にそうだよ一個もっていきな、損はさせないよ・・・・・・・・・ここまで話をさせて買わないでは帰れましと覚悟して買った抹茶茶碗30年前の金額で8万近く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その後給料日までまずしかったな~~
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こんな駆け引きがあったせいか、あの市のおじさんに興味があったのか今になっては判断できないけれど、今言えることは今は唯一織部焼きのファンとゆうこと。
唯一一個だけしかない黒織部焼き
これは一度も未使用・・・・・・・釉薬を流れないように変化をつけて変えた焼き方で黒くなったもの。
黒織部と矢ばれる。
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あの時あの深みの緑色や黒織部・黄瀬戸なの話をしてくれなければ今頃も陶芸などまったく興味もなかったろう~。

まあ人間がなにかに引かれるきっかけなどさほどたわいもないものだといまさらながら思う今日です。
あれ以来織部を集めだしすこしずつ増えてはいるが大してお宝ともいえぬものだろう。

今思うことは織部を教えてくれた多治見のおじさん元気だろうか~~またおじさん相手に歴史の話でもゆっくりしたいよとおもう。



■市販の粘土を使ってオーブンで焼くクラフト陶芸

●子供が喜びそうなキャンデーポットを作ります。

市販のオーブンでできる陶土です。
オーブンなら、ガス・電気を問わず、電子レンジのオーブン機能で充分に焼けます。
練らずにそのまま使えるのも便利です。
焼く温度も中火ですから、料理感覚で出来て安心です。
また有害物質は含まず、最近はエコを意識して、そのまま土にかえす陶土などもあり、いろいろな面で重宝します。

●用意するもの   市販オーブンで焼く粘土・へら・アクリル絵の具・紙やすり・など

最初に粘土をよく練ってほそながる一センチくらいの太さに伸ばしたものを数本用意しますそれを素材に巻きつけますからたくさんあるといいですね。

① 適当な野菜を用意します。(本物の感じが出るように形をまねします)
野菜はいも類など型くずれしにくいものを選びます。
ここではかぼちゃで作ります。
かぼちゃをガーゼで包みます。

② 陶土を張り付け、全体を覆っていきます。
底部から張り付けてから、周囲を覆うようにして張り付けます。

③陶土が全体を覆ったら、でこぼこをなくし、厚さが均一になるようにします。
上下左右、全体を見ながら、厚さを整えます。
ここで用意したへらででこぼこがあれば押してならしていきます。


④横中央からへらを入れ、陶土のボールを2つに分割します。(ほんの素材を取り出すためです、鋳物のつくりと同じです。)切り込みは、直線にしましたが、波型に入れると、ちょっと面白い器になります。

⑤ 器の中は、かぼちゃが形押しされています。
このままの形を生かして乾燥させます。
また、かぼちゃの他、じゃがいもや石など、いろいろなものと使うと面白いです。

最後に色を塗ります
お子様に絵を描いてもらっても楽しいですね。
今回はキャンデー入次回は各部屋のプレートなんかご紹介しますね。



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美濃街道:今も商う町並み・・・・素朴だけど暖かな佇まい



■記載末尾に和紙の葉書やしおりの作り方説明します
最後までご覧くださいね            (略式手漉き和紙作り)




■記載末尾にスプレー式の簡単、官製葉書で作れる素敵な心こもった一品をご紹介、ぜひ鮮やかな花色の生き生きした花をはさんでおつくりくださいね。きっと喜ばれる心こもったしおり葉書が作れます。     (スプレーを吹きかける作り方)


※この写真は以前牛乳パックをリサイクルして作った和紙の葉書です。
お礼状に使いました。風合いがよく筆文字が載りやすくいただいた相手様に喜ばれました。
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古い町並みはたくさん見て歩きました。
馬篭から始まり西東とやっぱり感じたことはそれぞれに特徴を出そうとしていることと、新しく走るのでなく古きあるものを生かしてなおかつ新鮮さ新息吹を吹き込もうとしている事がとてもうれしく先行き明るく感じました。

特産名産がある町並みない町並みそれなりに大変な努力をして、観光客を受け入れているのだといまさらながらに感じ入ります。
やはり日本人なのかと和にほころびを感じ梅のつぼみが今か今かと膨らむように次の町並みが楽しくなるのです。

木曽路のような馬篭まるで山の中で何もないような里にあるんですね・・・・・・・・木曽ヒノキ
こういった特産が折りなす地域を生かした特産物や作物など、また海が近くに水利が便利がいい古い町並みは、海上交通のいったんも担っていることがあり、単なる宿場だけにとどまらず、多目的に関しても発展をした町並みだと言えそうです。

私たち今現代にあり、古き時代古き町並みに求めるもの、これはやはり時代を大事に検証することと、それとともに、失われつつあるもの失われた古き大事なものなどを、できれば再現復興することも使命であり、これから保存を充実させていくことも後世に生きるものの役目にもなりそうだ。
いまや古き町並みはその地域だけに化せられた役目でないこと・・
・・・・・・だとおもう


この暖簾穴がたくさんあいていますよね
これ和紙なんですよ。
雨にも濡れるでしょうに風に吹きさらされるでしょうに。
でも手触りはしっかりやさしくそれでいてやさしく包み込まれるようなそんな暖かい感触がとても素晴らしかった。

中から覗く明かりは全部和紙で作られたものです。
ここは和紙の明かりを販売するお店でした。
和紙の明かりといえば時代劇で出そうな行灯などですが、最近は動物の形をした和紙の明かりとか、とてもかわいく今の若い娘さんたちが買いそうなものが多く作られていました。
いいものだと数万と・・・・・・・・・・いいのがありましたが、高すぎたので買いませんでした。

最近ではといっても数十年まえですが、和紙で手提げ袋が作り売り出されたことがあります、いまや和紙で衣服を作る技術も進んで実際試作がつくられています。

結構おしゃれな女性にはうれしい一品だけど実際来たことがありませんどんな感じなのか性質的に柔軟性に欠けるような気がします。
でもこれから未来和紙でいろんなものが作られ安価に販売されておしゃれも兼ねることができれば衣の変化は大きいものになりそうです。

アパレル業界の見直しなんて一変しそうでもその反面衰退を免れぬ業種もあるといえますね。
やはり時代の流れは厳しそうですね。

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これは竹で作って立てかける前回で記載しました”犬やらい”とはことなりますね。
単に溝に落ちないためかと。
ここは酒蔵でありちょうど出かけたときは新種が出来上がったのか軒下には大きな杉球がかかげられておりました。
ここで作られる酒は甲種だそうで味は格別まろやかとお店の方はおっしゃっていました。
そういえば数年前に灘酒造のお酒を試飲させていただきました硬水と結うことできりっとした中においしさが感じられ素晴らしかったのを思い出しました。

この酒造会社うなぎの寝床といいますか、間口も広いのですが、奥に中庭を配しその奥に土蔵がありました。
また中庭には作業をするためでしょうか、井戸があり現在も使われているとの事。

こういった井戸でラベルの張替えや酒の一升瓶なども昔は手作業で洗っておりました。
昔近くに同じ様な店がありやはり中庭がありそこで家族が手作業で洗っておりました。

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ランタンや
ランタンと聞いてどれだけの人がそのものをイメージするだろうか
ランタンとは良く山小屋などにかけられた今でこそロマンチックな明かりなのですが、あれしかない当時は薄暗く暮らしには欠かせないものでした。
そう・・・・・・・遠い昔電気の通っていない地域とか時代のお話ですね。
今でこそ喫茶店で見かけたり山小屋などにあります。
飾りとして門柱につけた家も見かけます。

私にとっても山登りをしたときの異物懐かしき品なのです。

昔は山登りもしていましたから冬に山小屋の明かりが見えるとほっと歩く足が早足になったものです。
それほど生活に密着、山では、命にも密着したように思えます。
あの山での明かりほんとにうれしいものです。

ここも明かりを作り販売するお店
とても昔と現代が調和したような佇まいでした。
お店の中に入るともう~~手に取り見て眺めて見たくなるような品ばかり、これが本当に和紙なのかと面食らうほどのできばえに実際に目にして手で触れてみて驚きました。

もし昔のお城にウサギの形をした行灯や狐の形の行灯などがあるとちょっと楽しかったかなと、ふと、そんな事を考えてしまいました。
和紙のランタンといっても白っぽいのもあればなんとカラフルな和紙がたくさん、中にもみじの葉っぱなど織り込んだのもとても美しく光に照らし出されていました。

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下がり藤のある紋のお店
中はお蕎麦屋さんです、中には着物の生地で作られた民芸の品々が展示販売されておりました。
中でも店の隅の机の上に何気なくおかれた”しおり”ちょっと不思議でやさしい感じ和紙で作って草花を織り込んだつくりに数点柄を選び購入いたしました。
とても素朴なしおりです。
今は読書離れが進んだとか申します、でもしおりを挟み本を読んでほしいと思います。
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このお店は喫茶店
ちょっと町並みにそぐわない感じのモデルでもやれそうな美人の娘さんがやっていて、厨房とでも言いますか奥ではお父さんでしょうか白髪の方が作って見えました。
コーヒーがとてもおいしかったのをよく覚えています。
また手作りのお菓子を販売しておりました、昔ながらの芋饅頭とか・・・・時代でわかるかな~~~~。
コーヒーが運ばれてくる間店内を撮影していいかと問うといいですの返事にあちこち撮影させていただきました。
丸太を半分にした机といす、その上にお母様が手作りで作られたといわれる座布団が薄く座りやすくさりげなくどのいすにもおいてありました。
キルトを施した座布団は暖かさはもとより、こしらえて座ってほしいとの気持ちがひしひしと伝わる品でした。
お店のお母様が一針一針針を動かせながら作られたその思いがとても暖かさを増します。
また暖かだけでなくとても素晴らしいキルト作品なのですよ。

ぜんざいもいただきました。甘みを抑えたつくりに実においしくいただけました。

いつまでも店内でゆっくりしたい気持ちの襲われますがなにぶん日帰りいつしか時間ばかりが過ぎ、腰を上げなければなりません。
また出かけたみたいお店です。

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今回も最後を飾るのは美濃街道の明かりアート
和紙で作られた明かりの揺らぎをごらんください。

これも和紙で作ってあるのかと意表をつかれます。
それくらい今の技術は進歩しているようです。

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■略式手漉き和紙作り

最後に牛乳パックから手作り葉書・しおり・などの作り方を紹介します。
これは実際に私がやっていたものですから間違いなく作れますよ。
そんな葉書に筆で一書き書いて親しい人に近況をお伝えするのもよいものです。

①パックを半分くらいの大きさにはさみで切っておく。
②それを水に浸しやわらかく上のビニール質が取れるまでつけておく。
③ビニールをはがした和紙部分をはさみで微塵きり丸で料理のようだけどできればシュレッダーにかけたようなのが最適、小さな差異の目が一番いいです。
④ミキサーにかけて何度も水を加えてまわして繊維質を溶かします。
⑤何度もミキサーを回すことにより紙質から繊維が出てまるで寒天を溶かしたような感じになります。
⑥色はどちらかといえば茶色がかった薄い色合いになります、少し漂白剤など落とすといいです。
⑦それを小さな目の網を用意します。葉書なら葉書よりふた周りほど大き目が最適。
⑧木枠を作ります、葉書大とその気枠が入る一回り大き目の木枠がひつようです。
⑨大きな桶か洗面器に水をいれソノミキサーにかけた繊維を入れます、ミキサーからは相当細切れになっているものを移し変えます。

先に作った網と木枠を挟み込み繊維質の水を救い上げるように何度も水を受けたり流したりを繰り返します前に前後に動かしたりします。
うっすらと網目に繊維が絡みつきます。これをはがし日陰で乾かします。
きれいな和紙の出来上がり。

また季節によって桜やもみじ葉っぱなどを漉くときに混ぜ込むと風情感じられる作品に仕上がります。
これは子供が小さいころ長くお世話になったガールスカウトで教えていただき販売したものです。
当時は手製和紙葉書を作ったり、和紙のしおりを作りバザーで販売したものです。

ぜひご自宅でお子様方とお試しください。





■押し花用スプレー使用作成例

①始めに官製はがきにお届けしたい言葉文章などを自由に記載してください。(季節のお便りに向きますね)を書いておき、素材鉛筆お子様のクレヨンプリンター何でもOKです。

②次にどの位置に押し花を置くか底の場所をあけておきましょう。

あらかじめ机やものにつかないよう飛び散らないように大きめの新聞紙を敷いたりして作業すると飛散を防げます。
葉書の50~60センチ以上離したところから霧状のスプレーのりを降らせます。
何度も同じ場所に吹きかけないようにさっと手早く万遍にかかるように吹きかけます。
あまり近すぎると気泡が入ったりはがきが裏返ったりしますので必ず遠くの位置からふきかけます。

③あらかじめあけておいた場所に、実際に押し花をあてていきます。
お子様にやってもらうのもいいですね・・・・・・・・意外と思わぬ素敵な表現ができそうですよ。
まず、主になる大きめの花をそこに配置します
その後小さめの周囲を彩る葉っぱや桜なら散り行く花びらなどの雰囲気を配置します。

④つぎに、押し花和紙(市販)を葉書より少しだけ大きめに切って上から重ねます。

最後は仕上げ、はみ出た和紙の部分を切り取ります。
素材はシリコンですから早すぎるとくっつきますので、数時間置いてから投函してください。

※お孫さんの手書きメッセージに押し花季節の花を添えてお出しするととても喜ばれそうです。

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美濃街道 宿場町の今昔・うだつが上がり海鼠壁が物語る 

歴史が今を昔を物語っている、古に大勢の旅人の足を休めた宿、今はどうなっているのか?
すごく気になるところです。
あちこちと宿場を回って感じたことは、どこも大半は、町ぐるみ地域ぐるみで昔を残そうと保存に努めている姿がくっきりと見て取れる。

宿場の整備は徳川家康により、関ヶ原の合戦後に始められたと歴史書には書かれている、先ず東海道、中山道と順次進められていった。
東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。
これがやじさん、北さんの話にもなるほど有名な名だけれど。

宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになった。
また、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などがおかれた。
これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免許、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めた。

ほかに一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげた。

こういった一般の旅人を相手に稼ぐあまり喜ばしくもないが宿場には必ず宿場女郎といわれる身の上の女性が売られていたのも事実です。
高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった。
高札場は意外と今でも名残のある宿場は多い。

宿場たる宿場の構成

問屋場 - 人馬の継立、助郷賦課などの業務を行った。

本陣 - 武士や公家用が宿泊・休憩をした。商業的な宿泊施設ではなく、その地の富裕者の邸宅が本陣として指定されることが多かった。

脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いているときは一般旅行者も泊めた。

旅籠 - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。

木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設。

茶屋 - 旅人向けの休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っているところ。

商店 - 旅人向けに商いをする店。

高札場 - 幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所。

枡形(ますがた) - 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所。外敵を迎え撃つための、一種のシケイン。
木戸 - 宿場の端(見附付近)に設けられ、木戸と木戸の間(見附と見附の間)が宿場町とされた。木戸のほかに常夜灯が設置されている場合もあった。またほとんどの場合、夜間は防犯などの目的で閉鎖されていた。
こういった生業で町が構成されており宿も身分に応じて止まり方が違うようだ。


白壁の修復から海鼠壁(なまこかべ)今はほとんど見ることもなくなりつつある懐かしい壁なのですが、最近の若い人に聞いても海にいる海鼠あたりと思われるに違いないだろう
これは嘆くに値しない時代がそうさせる現代の進み具合が早いだけそうおもうこととしよう~。

■これがうだつ
商売が盛んになり財をなし、また隣との防火壁にも役立ったのでお金があると屋根の上にこのうだつを立てた。うだつの上がるとか下がるのはここから甲斐性があるの意味ともとられる。
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写真を見てもお分かりのとおり、雨どい(雨が流れ伝うものですが)銅で作られていたのですね。
銅は古くなればなるほど緑色の味わいを出し緑青が吹いたといわれ大事にされます。
当然造るにも相当のお金がかかります。
だから金持ちになった証拠ともいえるわけですね。
だからうだつを豪商は競って立てたといわれます。・・・・・・・・これも時代をへて、権力者証ですね。

■これが海鼠壁
歴史的建物などによく壁面のしただけにこれが使われていたりしますね。
よく見てくださいこの、クロスした漆喰壁こんもりと真ん中が盛り上がり柔らかな半円形をしていますね。
これは技術的にとても難しい漆喰壁の技法だそうです。

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この塗り方で壁面を左右端から端まで一律で仕上げるには相当の技術を要したわけです。
だから手間もかかるお金もかかるうだつと同じ豪商の蔵や家に多く用いられました。

そういった努力を見るとついがんばってね、お店の品一品でも買って帰ろうかなんて気持ちにさせてくれる。
心安い売り子さんは、ここの蕎麦より向かいのあそこの店がおいしくて有名だよと教えてくれたりするから、ほっとしてうれしくもなる。
実際最高に蕎麦が惜しかった思い出を今も、おりあらば、再度訪れたいとねがっている。
ま~~~~~~遠すぎるのだ。


こうして歴史が守られ時代を超えてなお、多くの人に愛され訪れる人が後をたたないのは、こうした優しさや趣や古いたたずまいがどこかゆったりとした気持ちにさせてくれるからかもしれないです。

一軒一軒ゆったりと散策しながら除くと実に暖かさを味わうことができます。


写真① 
蕎麦屋の店の入り口に無造作に指された草木・・・・・・どこか素朴だった。
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写真② 
酒屋の入り口横:草木の計らいと同時に左側写真で見ると、”いぬやらい”が作られている。
この竹を丸くして家の軒下あたりにおいておくのは、よく京都などで見かける”犬やらい”などだけど、
京都花町あたりだと大事なお客のひそひそ場なしを窓越しに聞かれない為とか、いわれます。
やはりお金のかかることです。
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写真③
民家の何気ないもてなし、一期一会の気持ちを見ることができました。
造花でわない、本物の、椿がとてもうれしい。
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ここで美濃和紙に戻って
和紙の持つやわらかさのイメージをご覧ください、和紙を超越した技術の見事さに心動かされそうです


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写真上2枚の和紙の明かり
まさにやわらかさと優雅さといい、紙・和紙ならではの暖かさぬくもりや素朴さが十二分に表現されたものです。

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美濃街道とともに、美濃の明かりアートに心引かれて
前回、美濃街道歴史をたどる旅から、一路現代の町並みを織り交ぜながら歴史とともに
記載したいと思います。

古い街並は全国的に随所にありますが、古き時代の歴史ある町並みを抱える市町村はそれなりに保存に苦労されて現代まで大切に保存景観を保っているのです。
それに関して”ありがとう”の言葉を添えたいと思います。
ここに記載する美濃の宿場町美濃街道とそれますが、古き文化良き時代背景を見ることができますご覧ください。
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■美濃宿でであった和紙のお店
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■店内からとおりを望んで美濃のとおり
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まず、美濃の町でであった和紙との出会い
自分なりの調べると結う範囲まで到達するきっかけになりました。
このやわらかさ、この光のイメージ現代にもマッチした安らぎはどこから得られるか調べてみました。

美濃宿明かりアート展より
■和紙と竹の調和・・・・・柔らかなフォルムが生きる
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■現代に調和するイメージに仕上がってますね
フローリングの床面に無造作に置かれていたらまた余計にすばらしいと思えそうな・・・・
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美濃和紙の名産地

この時代遣隋使・遣唐使が行き来し仏教的にも意味が深かった時代背景が見えてきます。
美濃和紙の起源は明らかではありませんが、少なくとも奈良朝時代までにさかのぼる事ができます。
奈良朝時代は、仏教の興隆、普及によって、写経(お経を写すこと(般若心経))が盛んになりました。
その写経用の紙は、都である奈良で特に需要が高まり、各地から経紙が運び込まれました。

紙、という漢字は形成文字といわれるもので、「意味」を表わす「糸」という字と「音」を表わす「氏」という字を組み合わせた構造になっています。
「糸」とは「繊維」を意味します。
つまり、原料が木などの繊維であることを示しています。そして「氏」はその繊維を叩きのばすときの音を示しています。このことから、紙は原料の繊維を叩きのばして作られるものということが理解されます。

こうぞ・三椏だけでも紙は作れません一番肝心な水の美しいことが第一に挙がります。
今紙の名産地は大体水が清らかで有名でしょう。
だから、「種の起源」と考えられるものは中国で発見されています。
もっとも古いもので約2000年前。パピルスに比べると約半分の歴史ですが、その製法は、麻などの繊維を煮たり、叩いたりしてほぐし、これを水に溶かして、すくというもの。まさに紙の定義にぴったりのものです。紙とは、このように「水」を媒介として作られるものなのです。
原料のこうぞ・三椏そして水そして人が伸ばす裂くの動力が加わってこそ水と混ざりみごとになるのですね。


正倉院文書の中に、美濃経紙が記されていて、美濃はその量がもっとも多くありました。
美濃の国では、紙の原料となる楮(こうぞ)が良質で、多く取れたものと考えられます。

毎日新聞社「手漉和紙大鑑」によると、大宝2年(702年)「美濃、筑前、豊前3国の戸籍簿断簡(正倉院文書中に現存)であり、いずれもそれぞれの国府で、所属の製紙工に漉かせたものである。」とあります。これら史実から美濃和紙は1300年以上の歴史(平城京の時代です)を有するものと考えられます。

平安時代になると製紙業はいっそう発達し、美濃は紙の原料である楮(こうぞ)を600斤(約360kg)年貢を差し出しています。
これだけのこうぞが良質に取れたことから古から紙の技術がさかえたゆえんでしょうね。
町のあちこちに明かりのアートなどが配置されており心安らぐ町並みになっていました。
紙をすくには紙の原料を、京都へ送り、官営の紙屋紙として漉かれましたが、また、美濃の国にも官営の製紙場が設けられたので、紙の原料はすべてが京都に運ばれたというこではないようです。
美濃の国の製紙場は、紙屋と呼ばれ、岐阜県不破郡垂井町か大垣市荒尾町にあったと考えられています。
大垣は今も水の都といわれるくらい水利には恵まれた地形だからでしょうか。

紀貫之が愛した和紙は、現在の高知県当事土佐の国、土佐典具帖紙(とさてんぐちょうし)は世界で一番薄い紙と言われ俳人などに愛された紙だといわれていたそうです、今まで和紙なら同じだろうなんて考えでいました、実際自分が書を習いだしたとき和紙でも書の紙一枚でもいろいろあるのだと実感したものです。


この写真も美濃宿の明かりアートにて展示されていた明かりのイメージです。
紙・和紙が作り出す柔らかな光影その特徴を大いに生かした現代の明かりになっています。
和紙の持つ繊維質の一本一本が光と交差また違った雰囲気をかもし出しています。
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古代ナイル川から作られたパピルスこれは上写真のような柔らかな光は放ちません。
とゆうのは、紙・和紙とは繊維をつぶし伸ばし好いて作られるのに大使ナイルのパピルスは繊維を薄くはがしそのまま水にふやかして乾かし作るもの現代では紙とは認められないのだそうです。
そういった繊維をはいだだけでは上の写真のような柔らかな斜光は得られないのだと理解しました。



美濃市(旧武儀郡美濃町、洲原村、下牧村、大矢田村、藍見村、中有知村)における製紙の始祖は、明らかになっていませんが、岐阜県手漉紙沿革史によると、太田縫殿助が承安3年(1173年)(毎日和紙年鑑では建久年間1190年)に武儀郡牧谷上野村に住み製紙業を始めたとあり、羽場蔵人秀治が弘仁5年(814年)牧谷にきて御手洗(美濃市御手洗)において紙を漉いたでは、承安3年(1173年)か(1190年)に始めた太田氏か、(814年)に羽場氏が始めたと言われています。

美濃紙がもっとも多く京都に進出したのは応仁、文明(1486~)の頃で、美濃守土岐氏(源頼光、その子頼国がともに美濃守となり、頼国の曽孫光信のときに美濃国土岐郡土岐郷に居住して、はじめて土岐氏を名乗った。
)
の全盛期であり、守護代斉藤氏もまた繁栄を誇っていた時代であったので、両家は国力増進のため、産業開発に努めたので商工業が大いに発達すると同じくして、美濃製紙業も急速な発達を遂げたものと考えられます。美濃紙の中心は、現在の美濃市及び周辺の地域で、市内大矢田に紙市がありました。応仁3年大矢田紙商人は、京都にある領主の宝慈院に対し毎月6回紙荷の年貢を納入しており、この頃すでに六斉市であったことが分かる。当時他地方では、三斉市であったことから、大矢田紙市が大いに興隆していたことがうかがえます。

美濃和紙は、江戸時代になっても受け継がれましたが、紙漉き業はみだりに免許されませんでした。(紙船役といって紙抄槽に対して納める税金も、休み株が生じても、その村で役銀を納めて権利を保持してきました。)

明治維新により制限がなくなり、急に製紙業が激増しました。明治初年における美濃和紙の生産数量は、「美濃紙29萬束、23萬2千円」とあり、現美濃市の地域が紙生産の中心地であったことが分かります。

その後の経済不況、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資、労働力不足等が美濃和紙生産に大きく影響しました。
※しかし盛んに行われた紙漉きも時代とともに和紙の需要が少なくなり激変の一途をたどるのですが、最近土佐の人間国宝の家にお孫さんが後を継がれたとの話も入ってまいりました、まだまだこれからもっと和紙の特性を生かしたイメージのアート現代利用が進むと信じています。

あの柔らかな光と影の作り出す繊維の柔らかな風合いなんともいえない安らぎを受けます。


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美濃街道が岐阜に入るに当たり岐阜と尾張の国の歴史・・・・

岐阜は、稲葉城(現在の岐阜城)斉藤道三と尾張のうつけと称された織田信長との深い因縁があります。
現在の岐阜金華山から映した写真です、当時の人物が見るとひっくりかえりそうですね。
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現在岐阜シティー43から写した近代化が進む岐阜中心街風景
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教科書で習ったかどうか、道三の娘婿として信長との縁談が持ち上がる、持ち上がったとゆうか双方時勢を見定めての政略結婚になるのですがそこで、信長が本当にうつけかどうか見定めるために、稲葉の城に呼びます。
岐阜までの道中信長は期待通りうつけの真似をして街道中に信長はうつけなりと大いにうわさを流します。

さて!!話し合いが予定されていた岐阜城下近くの寺で席が設けられました。
道三は近くの水車小屋で道中のうつけぶりをしっかりとみております。
ここで信長のうつけぶりを見た道三はほくそえんで攻めることを考えた瞬間でしょうね
さ~~~て、対面の時刻ばりっとしたいでたちの若侍姿・・・・・・どこがうつけなんだ??

凛々しい信長の姿に唖然としながらも縁談は進みます。
この時信長がうつけなら、尾張の国へ攻め込む算段をしておりました。
逆に娘のう姫はほれ込んじゃいます。
道三は尾張に嫁ぐ娘に何か隙があれば信長ののどぶえを突き刺せと命じます。
しかし歴史上そういった事実はいわれていませんし、人生五十年で信長は本能寺まで生き延びるのですから。
のう姫も時代を動かしたまさに戦国の女性だったようです。

織田信長・尾張一のうつけの未来の姿・資料館からの引用です
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まず岐阜と尾張といえば避けて通れない歴史の一こまですね。

また歴史ある墨俣
皆さん墨俣といえば現在立派な白壁の城があるのですよ~~~~観光もくてきなのでしょうか、実際は川沿いに作られた丸太を組んだだけの山櫓見張り櫓だけなのですが・・・・・う~~~~ん
同じ中部だから手を差し伸べたいけど・・・・・やはり城作ってはいけないでしょ。
歴史をゆがめてはいけませんね歴史はうごかすものでしょう~~~~~~~~~861
初めて墨俣の小さいけれど城としての建造物を見たときは正直あぜんと・・・・・ポワ~~ンでしたし、悲しいです。

前にお座りの方・・・・後の豊臣秀吉・当時木下藤吉郎でした。

現在墨俣の一角はやはり時代についていけない一面もあり放置された民家も目立ちました。(過ぎ行く時代より)
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過ぎ行く歴史時代には人間はなす手がないそんな雄大な自然があると感じます。
時代に翻弄された女性弱者どれだけのものが劣者として歴史から隠れた存在で時代を生きたか数えられないでしょうね。


墨俣宿は愛知県熱田の宮の渡しから数えて7件目の宿場町です。
墨俣の美濃宿場としての町並みは意外と残っているそうです。
墨俣宿のとおりは現在の開発地域から外れていたこともあり残っているそうです。
江戸時代には、勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として、本陣などが利用されました。

この墨俣の一夜城(砦)のころに、蜂須賀小六と出会い永木に渡り影で支えた人物後の阿波の国の藩主になった人物としりあいます。
この蜂須賀小六実に秀吉に最後まで忠誠を尽くした人物として豊臣の時代大いに恩恵にあずかっています。
また秀吉もこの頃から頭角をじわじわとにじませ出世をし始めます。
機転が利く人物だったようだ。
そういった歴史を抱えた墨俣宿現在も脇本陣の門構えだけが残っているそうです。

またまた~~ローカル線乗り継いで大回りしちゃったかな~~~~。歴史は語るかな。

墨俣宿から美濃街道は進みます
大垣の宿場町に着きます・宮の渡しから八番目の宿場町になります。
このあたりは昔も今も伊吹山からの伊吹おろしが吹き付ける冬は厳しい自然との暮らしがあります。
しかし現在の大垣市は水の都といわれるくらい水利を活用し栄えております。
また松尾芭蕉の奥の細道の終着点が大垣です。

月清し遊行のもてる砂の上・・・・・松雄芭蕉
芭蕉は終焉の地大垣には関が原から入ったといわれます。

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芭蕉は関が原で二度の合戦を目にしているのですがこのことに関しては一遍の歌もなく語ろうともしなかったと弟子が行っている記載が残っています。
感極まりない心境があったのでしょうか。
芭蕉が北国脇往還を経て関ヶ原に入ったのは、元禄二年(1689)

八月十九日(陽暦十月二日)か翌日のことと思われる。芭蕉は関ヶ原には何度も来ている。貞享元年(1684)には「野ざらし紀行」の途次、二度も関ヶ原を通っている。伊賀に生まれた芭蕉にとって伊勢、尾張、南近江、美濃は頻繁に行き来した我家の庭のような場所である。美濃に入ったことで、芭蕉は「旅の終わり」を実感したことだろう。
関ヶ原は、日本史を変える大きな戦いの舞台に二度なっている。一つは672年に起きた壬申の乱であり、もうひとつは1600年に起きた関ヶ原の合戦である。しかし、芭蕉にとって千年以上前の壬申の乱はあまりに遠く、百年も経たない関ヶ原の合戦はあまりに生々しすぎた。芭蕉は何度も関ヶ原を通りながら、二つの合戦については何も語ってはいない。(奥の細道よりの引用)

美濃路:最終は滋賀県垂井宿へ東名高速で行くとささ~~~と、関が原のほんの向こうなのですが・・・。

垂井は、水が清らかで有名であり夏初夏からの梅花藻が小川を彩りかわいい小さな花を見ようと観光客がみえます。
渡しも毎年思いをはせ小さな白い花を撮影に参ります。
水かさが多すぎると花が上にでず、水面下に沈むためほどほどの量がよさそう。
美濃国府で使われる紙の管理を一手に担う役所がこのあたりにあり、官営の紙漉き場もあったというのである
現在の垂井駅前です濃尾平野西端になります。。
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■(1)中山道垂井宿
 垂井宿は中山道の宿駅であると同時に美濃路の起点でもあり、交通の要所でした。天保14年(1843)、垂井宿総家数315軒で、商工業者が多く軒を並べていたと記録されています。中町にあった本陣は大名、宮家、公家などの休泊にあてられ、西町にあった脇本陣は本陣の予備として使われました。東町には当時の旅籠亀丸屋が現存しています。現在本龍寺には旧脇本陣の門が移築され、一風変わった太鼓櫓が近接する民家の屋根瓦と相まって、当時の垂井宿をしのぶことができます。

中山道美濃路の石碑
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当時のまま保存してある民家(垂井市観光課資料引用です)

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教科書では習わなかった部分・・街道の影日向

美濃路:那古野から清洲宿(愛知県清洲市)・稲葉宿(愛知県稲沢市)・萩原宿(愛知県一宮市)・起宿(尾西地域)・ここまでが愛知県内の宿場町です。ここから岐阜県に入ります。墨俣宿(岐阜県墨俣市)・大垣宿(岐阜県大垣市)・垂井宿(岐阜県垂井町)垂井の宿で別のルートの中山道と美濃路が合流します。

美濃路では、大垣泊、墨俣または起で休憩、名古屋泊が通例であった。

全長58キロにわたる道中雨降りの日嵐の日、風が吹き荒れる日悪天候に悩まされながら旅人が往来する姿は浮世絵の東海道53次を髣髴させますね。

いよいよ名古屋の城から清洲宿まで旅立ちます・・・・多分天候は晴れなのかな?そうであってほしいな。

名古屋といえば織田信長ですね・・・・戦国時代はこの方からはじまりますね~~。(書籍引用)
ちなみに織田信長はいろいろと言われますがまさに先見の目を持ち時代をいち早く見すぎただけでしょうね。
数十年後で生まれてもやはり先見の目は同じだとしたら風雲児たるところでしょうか。

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愛知県枇杷島町(北名古屋市)で岩倉街道が分岐し、須ヶ口で津島街道と分かれ、最初の宿場がこの清洲宿である。

■清洲宿とは


このあたりは当時街道の修復工事が執り行われたのがきっかけで宿が立ち始めた。
往時は本陣1軒(大名や殿様格が泊まられていた)、脇本陣3軒(お付のものたちが泊まった)、旅籠屋21軒があり、濃尾地震による火災を免れたけれど、本陣林家の大親は消滅し現在は正門だけが昔の名残を残している。

現在の清洲市は、面積は、1,732haで、東西約5.5km、南北約8.0kmの広がりをもち、愛知県の面積の0.34%にあたります。
地形は比較的平坦で、庄内川の下流域にあり、ほとんどの地域が海抜10m未満となっています。また、庄内川のほかには新川、五条川などの河川が流れ、豊かな水辺環境に恵まれ、四季折々の風景を楽しむことができます。

五条橋五条橋は、室町期に斯波氏の時代から清洲越に清洲城の「御城橋」の役目を果たしてきました。現在の橋は、清洲越し前の擬宝珠の親柱と銘文をそのまま復元したもので、現在名古屋市の四間道の入り口に今でも立派な橋の役目を果たしております

修復された清洲城今は観光用として公開されております。
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稲葉宿とは

美濃路の宿場である。現在の愛知県稲沢市にある。

愛知県稲沢市は裸祭りが全国的に有名で荒々しい男たちの勇壮な新男を挟んでの壮絶な祭りです。
毎年二月に行われます。

清須城主・織田信雄が、小牧・長久手の戦いの前に造らせたのが、この街道の起源といわれている。
現在の稲沢市役所からも程近い位置にありながら、かつての宿場町らしい古い町の風景があちこちに残っており、美濃路の各宿駅の中ではよく知られ現在も関連番組などであがることがあるらしい。
家は切り妻はこういったつくりの町やに最も多く取り入れられており、あちこちの古民家で見ることができる特徴のひとつになります。
虫窓のついた二階はたいてい中二階になっているつくりが多い。
中二階といっても二階は天井板が張られていない梁が見える状態なので結構大人がたってゆったりあるけるくらいはあります。
清洲宿と同じく宿場町としての本陣と沸き本陣が各一軒づつあったそうです。
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(市制資料引用)

上記写真は本陣と脇本陣の二件です。
今は本陣跡石碑が建ち愛知県尾張西農業改良普及センターになっている。
稲葉宿には3箇所問屋場が置かれ美濃路沿いの宿強調文場の中では最も多かったといわれます。


萩原宿とは

現在の愛知県一宮市萩原町に位置しており街道沿いの宿場町にしては最も規模が小さく本陣も脇本陣もなく現在も一軒もその様子を知る建造物は残ってなく、毎年五月の第四日曜日全国のチンドン祭りがにぎやかに行われる。
今は宿場の影もなく、小さな商店街になっているだけです。


起宿とは

現在の愛知県尾西地方のことを指しますが
北上する美濃路は木曽川を舟で渡り美濃国に入る。
この渡し場の宿が起宿です。
本陣、脇本陣、家数887軒、旅篭22軒と名古屋、大垣に次ぐ規模で、対岸の墨俣へ渡る川待ちの宿として賑わったで船町宿場でした。
対岸の墨俣といっても木曽川は流れが急で雨が降ると船止めなどが多く旅人の足を奪っていました。
船着場の手前の富田と結う場所に1里塚がありました。

起宿脇本陣の敷地内に歴史民俗資料館がある。
ここ起宿は遠くに見える伊吹山から吹き降ろす冬の冷たい風にさらされる地域でもあり切干大根や漬物の生産なども盛んです。
宿場にさしかかる手前、富田に一里塚がある。


熱田の宮の渡しから愛知県尾西地域までを愛知県を通る美濃路街道と宿場町です。
次回は、岐阜県を通る美濃路街道とその宿場町をお送りします。





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美濃路:美濃街道
美濃路街道:七里の渡しから街道が・・・名古屋城炎上

宿場が栄えるにいたった街道とはその昔、江戸時代、慶長6年(1601年)徳川家康が東海道に伝馬制をひいたのを皮切りに東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の5街道が政治商売の要として整備された。
各街道沿いには宿場町ができ旅人が行き来するようになった。
全長58キロいおよぶ道のりだったといわれます。

ここで記載する美濃路とはどこからどこまでだろうか・・・・・・・・・・・・・。
愛知県名古屋市熱田区の宮(七里の渡し)ここから船で運ばれた荷物などが陸揚げされて地方に分散することとなる。
熱田の渡しから始まるのです。
昔の湊今は公園として整備されている。宮は桑名へ渡る東海道一の渡船場として賑わった。
天保年間の記録によると、渡船数75艘で小渡船は42艘とあり、大きな船では50数人乗りもあり海上交易の要所として大切な要ともなった港だったようです。

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ではその後をたどってみよう~
宮の渡し→名古屋(那古野)→清洲(愛知県清洲市)→稲葉→萩原→起→墨俣(秀吉一夜城で有名)→大垣(岐阜県大垣市)→垂井(岐阜県)と街道が続く。
今の高速道路の名神高速が走っています。
この道を走り続けると琵琶湖へとつづきます。

ではまず、美濃路へ出発です
宮の渡しの近くには由緒ある神社伊勢神宮にも匹敵すると言われる熱田神宮があります。織田信長が出陣の際は必ず戦勝祈願をしたといわれます。
現在信長塀が残っております。

織田信長が戦争祈願をした熱田神宮の神事(広重浮世絵引用)

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まずは熱田の渡しに荷物が入り陸揚げ堀川を小船で渡り那古野城下まで運ばれます
その荷物が横ずけされたのが先回記載しました四間道の堀川口です。
そこから物産ごとに豪商が荷を扱い城下へと流していく。
城を支える大切な町そこが四間道の町並みと土蔵だったのです。

そこから名古屋宿、になるのですがここは宿のない宿場通りすがりでした。街道は清洲と続きます、清洲は織田信長の母親と弟信行が暮らした城といわれます。

歴史的には室町時代の初め、尾張の守護職であった斯波義重は、清洲に守護所下津城(現稲沢市)の別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代としてその勢力保持をはかったといわれています。

文明8年(1476)守護所下津城が戦乱により焼かれ、清洲に守護所が移って尾張の中心地となり繁栄の時代を迎えます。斯波氏は当時、室町幕府を支える三管領(斯波、細川、畠山)の家柄で、将軍家に次ぐ有力な守護大名でした。
この後、弘治元年(1555)には織田信長公が那古野城から清洲城に入城、桶狭間で今川勢と戦ったとき、この清洲城から出陣をし大勝しています。
清洲は時代的にも那古野と因果関係がとても深い市なのです。

その後、慶長15年(1610)徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、慶長18年尾張の都「名古屋」がほぼ完成しました。信長公の偉業を告ぐ2人の天下人豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」、「天下の名城」などと賞賛を博した清洲城は、6万都市とともにその姿を消しました。これを「清洲越し」といいます。


ここで出てくる”清洲越し”これが四間道に商家を作り城下が栄えた基礎になる引越しです。

今回は熱田の渡し(宮の渡し)から名古屋城下(那古野城下)間での成り行きをご説明しました。
次回は清洲から記載します楽しみに見てくださいね。



現在の熱田区七里の渡し公園
写真に載っている鐘は時の鐘で、今でも一日三回時刻を告げます。
このあたりも戦中はB29の容赦ない爆撃で打つひしがれた町です
要所要所には戦火を物語モニュメントなども保存されています。
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清宮門といわれ
左右のかわらを挟みこんだ土壁の土塀は織田信長が作ったものです
俗に信長塀とよばれております。
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この石の橋は最古の石で作られた橋だといわれています。
苔むすさまは実に時代とともに歴史を見つめてきた重みを実感します。
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一般的な写真ですが現在の名古屋城
戦争末期には、爆撃により、ぐえんの炎を上げ火柱が天高く数時間に及び吹き上げたといわれます。
時折TVで当時の戦争カメラマンが撮影した貴重なフィルムからアーカイブで見ることができます。
燃え上がるも迫力です。
戦後地域の力と行政の厚い志で再建復興までの努力には地域の人の切ない希望があり、当時の金額にして一億の大金を地域の人々の寄付でまかなったといわれるくらい名古屋を象徴する城なのです。
現在天守閣手前の広場に戦火でなくした本丸御殿絢爛豪華な屋敷を再建中。
この再建も厚い名古屋城への想いが動かしたものと思われます。
修復できた暁は見事なる名古屋城がよみがえることでしょう。
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この項 平成7年2月28日名古屋城叢書10「特別史蹟・
名古屋城いまむかし」より引用

名古屋城が炎上する様子を知っていただきたくて引用させてもらいました。

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「必死のシャッター」
昭和二十年(1945)五月十四日の朝爆音が頭上に聞こえて、
ヒュッヒュッとあの妙な音がする。いよいよ落とし始めた
音だ。今日はどの方向か様子をとうかがうと北の方向!
どうも焼夷爆弾攻撃らしい。ふと北の方向を見ると、
黒煙が空をおおいつつある。太陽も黒煙にかくれて、
あたり一面は夜のように暗くなってしまった。指令部の
建物の付近にもどんどん落下し始めた。あちらこちらと
火を吹き上げている。地上は一瞬にして火の地獄に変わった
名古屋市の北部一帯は猛火と黒煙に覆われて、その中心から
異様な音が聞こえてくる。名古屋城郭内建造物の焼け落ちる
音。空はますます黒くなり、夜かと思える程である。
作戦室勤務の岩田一郎氏は、「城はどうなったか」と、
作戦室の屋上に駈けあがり、カメラの三脚を思わず立てて
しまった。どこからともなく飛来するのは、火の粉やトタン
板、板切れ等、危険はこの上もない状況となった。岩田氏は
城に向かって、シャッターを押し続けた。
当時は今のように望遠レンズの良質のものはなく、ライカ
カメラに105mmの望遠レンズ付けての撮影である。
数限りなく落下する焼夷弾は、天守閣の一角に急造せられた
鯱を降ろすための足場が造られてあって、この足場に引っか
かったまま火焔を吹きつづけている。一部には炎上をし始め
た所もある。北練兵場から打ち上げる高射砲の音が耳を貫く
も、その戦果は空を覆い拡がる黒煙でさっぱり不明である。
五層の天守閣はあちら、こちらから火炎を吹き上げるように
なり、岩田氏はただ呆然と屋上から城の炎上する姿にみとれ
ていた。黒々とした真っ黒な空に、真っ赤な炎が、何十
メートルと続いて、天に昇る姿は、かの戦国時代の落城の姿
そのもので、三百余年の歴史を秘めた日本の名城が、いま空
の魔物に吸い上げられるように、天高く炎が舞い上がってゆく
火炎は次第に天守閣を包み、巨大の真っ赤な火の玉のように
なった。その赤い火の玉の中から緑色の炎が、魔物のように
メラメラと立ち上がり、銅瓦の緑青の焼ける炎である。
空はまだ真っ黒な煙で一ぱいである。その中に天守閣の焼け
落ちる姿だけが、くっきりと浮かび上がっている。映画の
セットではない。これはほんもの城、ほんもの火炎である。
岩田氏は悲しさを忘れ、神々しいまでの美しい神秘の姿に
打たれ、ああこれで城の偉大な姿と歴史も終わるのかと
一瞬涙ぐんだ。
天下の名古屋城はご承知のとうり、巨大な名木で建造され
おり、街中の民家の建物ように、そう簡単には焼け落ちない
わけで、火炎の天守閣はメラメラと巨大な炎となって、黒い
空に向かって、吸い込まれてゆく。恐怖心は薄らぎ、炎上
する城の美しさにうっとりとした岩田氏は、石垣の上に立つ
巨大な建造物の火炎は彼の生涯を通じて、最初で最後のもの
となった。
この項 平成7年2月28日名古屋城叢書10「特別史蹟・
名古屋城いまむかし」より引用



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新しき時代と古き時代が織り成す交差点なんていえばもう少しかっこよく、
ヨーロッパとアジアが出会う町とか出会う交差点なんていいたいけれど
そんなカッコいいところでもなさそうだし。
しいて言えば古きよき時代と現代が交差する町とでも言えそうだけど
こんな町が大好きだ。

泥臭さの中に粋が生まれたり、洗練されたって見方は泥臭いからわかるものであり、泥臭く田舎っぽく古めかしく時代遅れそんな地域に大いに乾杯として生きたい。
そんな人間らしく温かみの感じられる泥臭さの中で人生生きれたらいいね。

次回予告です~~見てね
美濃路でずっと記載をしてきました次回は四間道から名古屋城西側を通り岐阜方面へ・・・・・行き着く先は美濃路:美濃の宿場町
美濃の宿場が織り成す風景を歴史をはさんでお伝えしたいと思っています。
今まで同様ごらんくださいね。



歴史とともに時代がはぐくんだ宿場や街道その時代の特色などを織り交ぜたいと思っていますフラット四間道のとおりを右へ左へと歩いているうちに方向感覚がなくなりかけるが、そんな時であった暖簾がとてもさわやかだった和食のお店いい感じでした。
ふら~とお客になって入ってみたい気持ちになったけれど、どんなお店かもわからないそんな気持ちが足をとどまらせた。真夏の暑い昼下がりの一こまです。
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浅間神社の境内西日がやわらかく当たり社務所あたりの窓ガラスに影を落とし始めた。
時代が進もうが現代から取り残されようが西日は平等に差すものだとふとおもう。
どこからか夕方の○○チャンごはんよ~~なんて、昔なら聞こえたりしましたね。
どことなく懐かしく昔を思い描ける風景でした。
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いつごろ作られた建物なんだろうがデザインが施された格子戸さびが出始めて塗りたてのペンキのはげかけた後が痛々しくもあり、雨風に風化した年月を感じられる。
きっとつけられた当時はハイカラなデザインでカーブした部分など粋だったのかな~~。
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右近のあるお店から西に曲がるとおりに赤者鐚とたん張りの家がある。
だいぶたつのか、人は暮らしていそうだが壁面に一向にお構いなしといったつくりである。
赤い色合いが悲しく太陽に照らし出される、特に西日が当たると余計赤が目立ち寂しさを覚えてしまう。
私の目には赤者鐚とたんは物悲しく泣いている気がした。
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ふと目に留まった置物
お店の人に尋ねると浜松のてづつ花火とか
その現物だと教えられた、何で玄関にこんなものがあるのかと聞くとおまじないとか。
へ~そんなおまじないがあるのか神の祝詞までしてあるししめ縄の紙までもびっくりでした。
ところ変われば品変わる実にそうなんだと感心した。
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見てのとおり道、一本表は都会のど真ん中
後ろに見える国際センタービル、駅前からのど真ん中の交差点になりますが、その裏にはこのようなやはり時代から送れた地域ふと目をやるとどこかで駄菓子屋なんかありそうな、
そういえば昔池袋の大通りから裏に入ると小さな公園がありそばに小さな昔ながらの駄菓子屋でキャンデーを買った記憶がある。
東京に暮らしていたときの懐かしい記憶
今ではセピアに色が変わるほど昔だが私の中ではまだまだカラーなのだ。

ふと考える!!四間道の界隈も住んでる人には現代なのだろう。
まだまだセピアではなく、はっきりと色がついている世界だろう。
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四間道の玄関を開け放した民家
どこかきちんとそろえられた靴に共感を覚える。
いっそう懐かしさを覚えた。
昔はどこの家でも開けっ放しなど多かった時代もありこれもやはり懐かしい
あまり懐かしがると年がばれちゃうな~~~でもね、懐かしいね~~。
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愛知県は昔は尾張の国
この時代は戦国真っ最中取るの取られるの時代真っ只中なのです・・・ちょっとだけ日本史おもいだそうね~~
白壁の向こうに見える隠れた時代背景は??戦国時代へと遡るのです~~~のぼるぞ~~~~~~戦国時代へ

まず那古野の歴史から

那古野は、元々駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有していた当時の地名そのままなのです。
斯波氏は尾張を領有した後もこの地に留まっていた。(1521年 - 1528年)に今川氏親が尾張進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳の丸」を起源とする。
今川氏の時代、この城の城主は氏親の一族で一説には那古野氏の家督を継いだともいわれている今川氏豊という人物であったと伝えられている。

1532年、勝幡城(稲沢市)の織田信秀は今川氏豊を滅ぼしてこの城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたともいわれる。

1534年生まれの信秀の嫡男、織田信長は那古野城で生まれた可能性が高いとされている。信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南方を固めるために現在の真宗大谷派 名古屋別院(名古屋市中区)の地に古渡城を築いてそこに移った。
なお那古野城奪取は1538年説もあり、勝幡城で誕生ともいわれる。
歴史的な背景は公証により紐解かれるのですね。

あの有名な信秀父親がなくなったとき信長は葬儀の仏前にて香を投げつけたとあるあのころは信長はもう跡取りとして那古野の城に入っていたとされている。
母親と弟は清洲城にいたといわれている。
あのころから信長は那古野の城においていろいろ時代を先見していたのだろうか。

昔からの城を中心とした地名、鷹匠町、紙漉町、大工町、などは、昭和60前後まで使われていた気がする
とりわけ鷹匠町は我が家の町名であり
、名古屋城から歩いてもすぐの場所にあるが、昔名古屋近くには江川とゆう堀から流れる水を幽邃していた川がある、その近くに殿様が鷹狩をする地域現在では名古屋城堀のすぐ西あたりの地域が昔の地名で鷹匠町といわれていた。
歴史的にも残したい地名だとおもう。
現在は城を中心に東西南北と○○一丁目って感じかな味気ないですね。


さてこの白壁に話を戻します
新幹線で帰るくらい大回りしちゃいましたね歴史は楽しいですそれなりの現実にもとずきますね。

さて、この四間道の白壁の土蔵名家伊藤家今の松坂屋デパートの創設者の持つ蔵もあります。
今も昔もしっかりと豪商ですね。
土蔵の中は夏は涼しく冬は暖かく湿気が入りにくいといわれます。

昔は豪商が清洲越しで、火災を予防するために道幅を決めて蔵を作った経緯もあり、歴史ある白壁の土蔵がならぶ地域でうだつの上がった家もありました。
米や作物乾物など熱田の港現在の熱田区の熱田の渡しにつく船から堀川を小船で名古屋の中心まで運びこの堀川に陸揚げされていた。
商売の中心でもあったのです。
当時は豪商が軒を並べ競い合ったのでしょうねにぎやかな地域だったことが伺えます。

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四間道は下記にも記載したとおり、大都会に埋もれた街角
異質な文化がそこだけ開いたわけでもないとりわけ発展過程において取り残された不思議な空間なのだ。
それも大都会のメインステイションのほぼ近くありえないような一角なのだから散策しても楽しい。


ふた昔前それ以前、この写真の場所も人でにぎわったのだろうか今は寂れた感じしか残っていないが、どうやらスナックか何からしいね~~、ならよった人でにぎわったのだろうか、今はそういったことを想像するしかできないが相当古ようだ。
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この欄干のある小さな橋これが五条橋です。
北西からこの地域に入るには必ず通ります、そしてここからこの地域の散策が始まるのです。
取り残された一角への入り口に当たります。
この橋をとおり南へ歩くと白壁のあるとおりにでます。
以前も記載した右近などお店がある通りです。
ここには伊藤家の白壁の蔵もあり蔵つくりの美しさを実感できます。
伊藤家は財を成した家でありこの辺でも結構有名な家ですね・・・・。
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どこか懐かしい小さな四角のタイル
これってそう~~年がわかっちゃいますが、まだ幼いころそのずっと前からあったようです。
今でこそタイルも変化洋風のイメージもありますが、昔はこんな小さなタイルで壁特に水周りとか風呂桶の周囲や台所の流しなどにつかっていました。
時折田舎の湯治場などに行くと今でも見かけることはあります。
昭和初めの残骸とでもいえそうです。
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※名古屋は軍需産業が盛んに誘致されていたので戦争後半で爆撃が激しかったのです。
基本的な軍需工場が名古屋城をはさみ周囲に分散熱田区から西区など幅広く誘致されておりました。
アメリカ軍のB29の爆撃はこのとき名古屋城も炎上さすほどのすさまじさだったと後世ききます。
西区のお城のあたりの人々は名古屋城が炎上するのを泣きながら眺めたと聞きます。
だから再建に当時のお金で一億ものお金を地域の人の善意が集めたのですね。心意気ですね。
まさに名古屋城炎上の写真もよくTVで見ます。
まさに悪魔の炎そのままで、戦争の悲惨さ過激さを目のあたりにします。この写真の石も戦火で燃え尽きた残骸といわれます。
石本来の色をとおりこし、ぐえんの炎に燃え盛る中にありこのように色が赤黒く変わったのだろう。
今こうした形で残っているのはとても悔しいことだし平和の尊さを実感します。
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このあたりの各家の玄関上に正月飾りの門松がかけられている。
たいていは七日正月で7日には正月が開けると言われますが、どうやら意味合いが違う文字に"笑門"とかかれている。
何しろ縁起としてはかかげていていいことだとおもう。
ちょっと風変わりだけど、よく奈良のほうに行くと節分のいわしとヒイラギが翌年までかけてあるのと同じではないかととっさに思った。
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円頓寺商店街のど真ん中にふと横を見ると神社がある。
多賀宮だ。
縁結びの神様をお祭りしておりここには、願い事が叶うかどうか直ぐわかる「おもかる石」が置かれていますので、お参りして試してみても良いでしょう。
石を持ち上げて軽いとか重たいとかで願いをより分けるとか・・・・気持ちですね~~。

ここ円頓寺商店街はまさに四間道の地域と隣り合わせフラット入り込むと四間道だったりと懐かしさの残るお店などもあります。
この商店街もいろいろと季節ごとにイベントをしています。
楽しい行事などもあるのでぜひお出かけください。
特に名古屋ど真ん中祭りや、夏の円頓寺七夕祭りはとてもにぎやかです。


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四間道ガラス館

ここ四間道の町並みに会いに四度ほど足をむけている。
自宅から自転車でもいかれる距離にある割には足はいまいちだった。

友人に誘われ真夏の超暑い昼さがり町中を見て撮影して歩いた。
暑さが苦手な私もこの町並みだけは暑さを忘れて必死でうつしたものだ。

白壁の土蔵。
同じ白壁の土蔵でも漆喰がはがれ無残な壁姿。屋根神様。神社。アンティークなおみせ。お食事どころ。カフェ。着物の仕立て屋さん。判子やさん。お地蔵様。
昔ながらの白壁の土蔵を改造したお店が新しく増えていたりするそんな楽しみは実際に足を向けないと味わえない。

しゃれたお店に模様替えした蔵はぜひいってみたいものだ。



店舗面積は10坪店内に取り付けられたスポットライトの効果で、色とりどりのガラス器が壁に浮き上がっているような幻想的な空間を演出。

店内には、宮内庁御用達メーカー、カガミクリスタルの「江戸切子」をはじめ、国内ガラスアーティストの作品、フランスのナハトマン社のクリスタルなど、国内・海外合わせて約400点のガラス器、陶器、漆器、アクセサリーなどを取りそろえている。

私も赤とブルーとイエローがなんとも絶妙に絡んだ軽くて大きなビール用グラスを一個3000円で購入。
今もお気に入りで大事に使っている。
毎日使用して見てまったく品物にあきが来ない、それはやはりいい品だからなのでしょう。

四間道ガラス館ではイベントとして各種教室を開催しております。専門の先生をお招きして、
プリザーブドフラワーやステンドグラス風アート、コーヒーの入れ方など、ガラス館の一角を利用し
少人数制で学んでいただけます。



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四間道の浅間神社:金毘羅神社

名古屋駅からぶら~り歩きでのんびりとまるで美濃路を歩く感覚でゆったり歩くと大きな道路が桜通りこの路なりの国際センター横の裏道を入るとしばらくするとちょっと異質な感じの場所に出る。

また、別の北東方向から行くとすると愛知県県庁その大きなとおりをどんと南へ抜けると上に高架が東西に走っているその道を右折道を横断し一つ目のは道を左折するとほんとにこんな場所にといえそうな、中心地ど真ん中の横道それた一角だから妙に古くて懐かしい。
なんと市のはずれ、町はずれではないのだから妙に不思議な一角に覆えるのだ。
多分ふと横道で近道でもなんて思う人は一度は味わったことのある違和感を覚えただろう。
30数年住んでいる私でもすぐ身近にそれも日々買い物に出かける円頓寺商店街のすぐ裏にこんな地域が懐かしく残っていたとは最近まで知らなかった。
今にして思えばとてももったいない干渉に浸ってします存在なのだ。
古き時代と新しき時代は隣り合わせまさにそうだと思った。

さ、その懐かしい地域名古屋タイムズの建物がある表どおりから駿台予備校をぐるっと迂回その地域に足を踏み入れてみよう。赤い欄干のまるで牛若丸でもひょっと欄干に飛び乗りそうな小さな赤い橋がある、五条橋です。
ほんとに小さな橋ですがよく都会のど真ん中にこんな橋が今も残されているものだと感心します。

そうです。そこは昔からの美濃路の街道の一部なのですから・・・・・。
中橋のたもとには浅間神社があります。この神社の創建は不明ですが、木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)を祀った古社です。
毎年十月一日、二日に大祭が行われる。


境内には当時からのクスノキやケヤキが計7本あり、保存樹に指定されています。
神社の割には大きなケヤキや楠木でうっそうとした感じがします。
どの木も樹齢300年ほどにはなるそうです。
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この龍の鋳物は神社で手を洗ったりする洗い場の横につけられています。
昔から水は龍が守るとか今も見守っているのかもしれないですね。
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この神社は大国主命を主際神とし名古屋城築城当時から三の丸にあった重臣大道邸に祀られていましたが1859年この地に移されています。
毎年10月10日に大祭が行われ賑わいます。
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那古野一丁目に、赤い木製の灯篭がたくさん並びおくには赤い鳥居がまるで京都の伏見稲荷のあのたくさんの、とまでは行かないけれどそれなりに重なりたくさん設置されております。
鳥居の奥に見えるかわいい稲荷様狐ちゃん、とても優しそうな顔でした。
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浅間神社の”手水舎
手を洗ったあと、あっと気がつきましたクリーニングのハンガーに選択したタオルがかけてあるのです。
心地よい気持ちになれます。
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浅間神社の向かいに土蔵造りの建物があるのですが、どうやらお店のようです。「那古野茶龍」と書いて「ナゴノサロン」と読みます。土蔵造りのダイニングカフェ
那古野サロンも古民家を移築したようなフレンチ専門のお店で雰囲気も素敵です。
店内はバーみたいな雰囲気、800円のパスタランチが人気の模様。

パスタも食べたいけど、メインも食べたくて、なんてお客様にはうってつけではないでしょうか。
さっとその曲がり角を回って暖簾をくぐるススス~と入りやすい感じ
おくにはお酒のビンなどが素敵に並んでおりちょっとした軽いバーって感じかな。
だから余計に雰囲気があるんですよ。

注文したのはコースランチ1350円
細やかな気配りとちょっとしたアイデアがすばらしいと思いますまた足を運びたくなるお店です。
でも概観はちょっとえっここが~~なんて感じですからね足を一歩中へ押し込みましょうね。

お店横のこの昔風街路灯どこか神戸~~~~霧にむせぶなんて似合いそうなんですから周囲白壁が見えたり意外に昔を思わせるロマンチックな雰囲気もありますよ。
昼には昼のよさがあり夕刻のたそがれまた西陽がさっと入りいいですよ
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こちらがその曲がり角を左に折れて~~~なんて、その角の入り口
ちょっとした釣り偲ぶが風になびいていい音色を響かせているから夏などたまらない。
一見和風だけど中は一見ですよ。
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1962年名古屋生まれ。東京在住
ディジタルイメージ会員
人、自然をモチーフにした日本画的タッチで
著名作家の作品に挿絵、装丁画を提供。

2005年仏での個展をきっかけにElle、Psycologie、WAD等欧州メディアでも活躍。
またデザイン事務所ハイ制作室を率いてアートディレクターとしても活躍中。
2001年よりプライベートブランド[penelope plus]にテキスタイルデザインを提供。
2003年新作浴衣コレクションを発表。
2005年著書「Illustrarion Style」出版。
平面にこだわらない様々なメディアで独自のビジュアル表現を展開中。
ここ那古野一丁目のサリンでは個展等が開かれている。
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玄関格子戸に逆文字ひらがなで”うとい”の文字。
これはこの界隈昔は芸者置屋などがあり芸者さんが歩いたりしていた。

この家は芸者置屋だったらしい、円頓寺商店街が昭和のはじめ大勢の客で賑わいを見せていたころ、そうひとしきり大須界隈と並びにぎわった商店街でした、今は寂れた感じですがそれでも日々客足はのこっています。
当時の面影を偲べる芸者置屋の玄関文字はこれは表札代わりだったと言われます。
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月のののこさ
変わった名前の、で、もって愛着のあるちょっと気にかかるお店です。
着物リフォーム
歯切れで作り出される小物たちちょっとしたアイデアのある作品が一杯夢売ってますよ。
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朽ち果てたトタンすだれにほころびでもあったのだろうか次宛、なんだか切なく寂しくなる風景これも大都会の一角の風景まさに今と昔が交差しています。

昔こんな風景意外にありましたね。
最近綺麗なビルが沢山並んで華やいだ雰囲気だけど一歩裏通りに回ると残された時代を見ることができます。
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テーマ:ある日の風景や景色 - ジャンル:写真

四間道界隈大きな町並みからふと何気なくそれてみた
そこは白壁の大きな土蔵が並んでいたり屋根神さまが祭られていたり、土塀が朽ち果て落ちかけた家があったりと、ふっと迷い込んだ迷路・・・・・・・
次元を超えた町に足を踏み入れたようだ
そこが魅力ある四間道。

江戸ウサギ
ちょっとかわいい名前反物などを持っていくと気軽に着物仕立て焼き物を洋服にし立てなおしてもらえる。
店先の暖簾がかわいい白きいぬきのウサギちゃん、妙に懐かしく手でそっとさわってみたりね。
店の前には和服仕立ての洋服を見たマネキンがいたり店の中が気になる雰囲気なのです。
当然いろいろアイデアを凝らした品が狭い店内に飾られていてちょっと長いしたくなるお店。

江戸ウサギ
ちょっと暖かな母親の胸に抱かれたそんな気持ちになる店
暖かさと優しさと期待が入り混じる
そんな現代の殺伐とした町から迷い込んだ
ちょっぴり贅沢な気持ちに慣れた町。



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子守地蔵尊
安政年間に井戸掘りの最中に掘り出されたとの事です。
きっとその昔子供が病気でなくなることが多い時代子供の成長を願って作られたものが時代と共にうもれていたのでしょう。
いつも花が添えられお菓子などお饅頭などがお供えされていました。
近所の方がおまつりしてみえるのでしょう。
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屋根神様
私も名古屋に来て初めてなぜかわらの上に神様をお祭りしているのか不思議でした。
町が密集していて一旦火災が起きると大火事に発展したのでしょうか、路地のあちこちに屋根神様がおまつりされています。
ここは昭和61年に市の指定を受けて保存地域に指定されました。
現代に残る昔の懐かしい町並みとしていつまでも残したいそんな迷路に足を踏み入れました。
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テーマ:*写真で残す日常* - ジャンル:写真

四間道にひかれて

大都会のど真ん中
何気なく歩いて出会える町
昔が現存するそんな町
ふと心引かれ足がふら~と向く先は
白壁の土蔵があったり
朽ち果てた壁が痛々しかったり
されど大都会ど真ん中
そんな町に足を踏み入れてみた・・・・・・・。


中部を代表する都市名古屋、その真っ只中に”四間道”がある。
時代がさかのぼり歩いても心引かれるそんな地域です。


名古屋駅の近く国際センタービルの側を流れる堀川沿いに古い町並み、四間道(しけみち)がある。
名古屋城の築城は慶長15年(1610年)に始まりますが、それまで尾張の中心は清洲でした。

築城後、武士・町人・寺社などが町ぐるみで移動した。これが「清洲越し」です。
熱田の湊と名古屋城を結ぶ堀川には、水運を利用して米穀、塩、味噌、酒、薪炭などを城下町へ供給する商家が軒を連ねて繁栄し、堀川は、豊臣恩顧の福島正則を中心に20の大名が普請を命じられ、商家の玄関は,物資の集散を行うため堀川に向かい,土蔵が家の裏手に作られた。

四間道は1700年(元禄13)の元禄の大火で1649軒の町屋と15の寺社が焼失し、尾張藩4代藩主の徳川吉通は、商家の焼失を避けるため、堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張した。
これが四間道、現代に残るアンマッチみごとな空間を作り出しているのです。


ちょっと汚れかけた白壁に現代が寄り添うお店”右近”

数段の階段をとんとんとんとあがると概観とは似つかないしゃれた入り口がある
右側が店になっており入り口近くに電子ピアノがあり奥にはグラスなどのしゃれた棚などが配置ちょっとしゃれた店のつくりとなっている
階段横にカレーライスと張り紙がある、様子を見ていると昼近く主婦が多く入る姿が見られた。

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sara喫茶店、ショコラつきでおいしい焙煎コーヒーを飲ませてくれる
右近から斜め迎えにある喫茶店、ほんとにしゃれた店なのかしゃれてないのかわからないそんな雰囲気がある、中はほんとに狭くうなぎを半分に切ったくらいの短い店内くらい店内なのだけど落ち着く。
数席の机とカウンターがあるのみ、薄暗さがやけに落ち着くからいいみせだろうか。
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?昔の栄華今も影なしってところでしょうか
白壁が落ちて口かけるのですがなにぶん修理に費用もかかります、むなしさが残る壁でした。
寂しく時代を感じます。
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テーマ:お散歩写真 - ジャンル:写真

木曽路はすべて山の中の書き出しで始まる文豪島崎藤村


血につながるふるさと
心につながるふるさと
言葉につながるふるさと


上は、藤村が残したことばです。
温かみのあるそれでいて、血のつながり心からのつながりの深さを実感することばです。


藤村記念館
ここ馬籠は中山道六十九次の江戸より第43番目の宿場です。
明治、大正時代の大火により江戸時代の建物はほとんど焼失してしまいました。
現在は妻籠と並び観光地として知られますが、多くは兼業農家の人々が素朴に住みなすふるさとです。
そこに書かれた木曾は山の中ほとんどが貧しい暮らしの人々が暮らす地域でした。

馬籠宿は、馬の背のような丘の上に宿場があり、宿場としては珍しい場所に作られています。
そこから道ひとつ山側に超えると妻籠宿です、険しい山道を旅人は登り次の宿場町妻籠宿へと行き来したのだろう。

最後に木曾といえば忘れてはいけない人物
木曾義仲がいます。
豪傑な武将です、その妹の菊姫が没したのがこの地です。
五輪塔がありこの墓には、木曽義仲の妹、菊姫がこの地で没し、その供養のために建てられたのではないかという話が
伝えられています。

時代に翻弄された義仲、
平家追討の兵を挙げ朝日将軍とまでいわれた木曽義仲は僅か4年にして元暦元年1月、粟津原で悲惨な最期を遂げた。
義仲に宮菊という1歳違いの異母妹がいた。
鎌倉幕府の日記ともいうべき「吾妻鏡」文治元年(1185)の条によれば、頼朝の妻の政子は宮菊を「やしない子(養女)」にして慈しんでいた。
都に居た菊姫は将軍の息女ということで威光があったため、周囲にいたよからぬ者たちが、菊姫の名前を騙って役に立たぬ古文書をあげたり、不知行の荘園を寄付したり、また菊の使いだといって官位が高く権勢のある家柄の荘園の年貢を横取りしたりした。
これらのことが鎌倉の頼朝の耳に入り、頼朝は菊姫を捕らえて鎌倉に連れてくるように命じた。

鎌倉に捕らえられた菊姫は、横領のことや悪事の数々は、悪巧みをした人々が自分の名前を騙ってしたことで自分は一切知らないと弁明した。
政子のとりなしもあって頼朝は、兄義仲は朝敵として討ったが菊姫に罪はないとして、その境遇に同情し『美濃国遠山の荘の一村』を与え、義仲恩顧の御家人である小諸太郎光兼らに命じて菊姫の面倒をみさせた。
遠山の荘の一村とは馬籠のことだという説が定着している。
と結うわけで菊姫はここ馬篭の地で没したといわれている。

義仲も菊姫も鎌倉時代に大きな時代の渦に飲み込まれ人生を翻弄された二人だったに違いない。

これで馬篭最終記載です。
有難うございました。
明日からは場所をガラット名古屋に変えますお楽しみに。





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え!!馬篭にカースト制度????なんてあるの??

馬篭言葉がちがうだってね~~~。
やわらかくいい感じでもきつい感じもします。
でも懐かしいどこかで聞いた言葉のようで懐かしい~~


いつだったか土産物屋の置くから地のばあ様が出てこられて話しかけられた、ま、いえば一応都会なもので、まったくと言いますか七割わからない????

聞き返すもすごく悪いかななんて思ったものだからわかった顔した
帰ろうと土産物屋を出ようとしたら、怒った口調でとめられた
え!!みやげ物を買わなかったことが原因らしい

さてばあ様が言ったのは・・・これかわいいべ、買って損はないぞらしい??
私はうなずいた相手は当然買うと思ったらしい・・・・・・・・・・・納得だ!!



馬籠宿は木曽の地ではあるが、その言葉は信州弁でも木曽弁でもなく、独特な言葉であるといわれている。
地形その他の影響から、東濃地方の言葉の影響を受けたものともいわれている。
相手により言葉を使い分ける習慣が大きな特徴であり、親しい間では男女とも「簡潔な命令調」であるが、目上の人に接するときには「柔らかな語りかけ調」に一変する。
古くは身分制度をかなり意識した土地柄であったため、家格差による敬称の違いも興味深い。
   最も高い家格に嫁いだお嫁さん ⇒ ネエサマ (様付けで呼ばれる) 例:○○屋のネエサマ
   次に高い家格に嫁いだお嫁さん ⇒ ネエマ  (マ付けで呼ばれる) 例:名が「よし」なら、ヨシマ
   次に高い家格に嫁いだお嫁さん ⇒ ネエサ  (サ付けで呼ばれる) 例:名が「たみ」なら、タミサ
ナアシは馬籠のことば
馬籠特有のことばに「ナアシ」がある。これは、「・・・です」に相当する丁寧語。柔らかな響きで心地よい。


写真に出ているお店紹介

大黒屋茶房
名物栗こわ飯(大黒屋特製)
わらび餅・栗ぜんざいなど木曽路の風味をお召し上がりください。
店奥のギャラリーには民芸品や小物などが並び目を見張る芸術館があります。
店奥ノギャラリー横には天井が吹き抜けになった場所がありほんのり天井から太陽がのぞく、柔らかな日差しが差し込むようにできておりしたには懐かしい囲炉裏がある。
見事な芸術品が壁狭しと飾られ素晴らしい雰囲気をかもしだしている。

ここは隣の蕎麦屋と共同になっており通路を通ると蕎麦の食事何処へいける。



茶房よもぎや

ここの抹茶は天下一品かも濃くがあり柔らかでふんわりと飲み心地よく香りがすごくいい。
団子も五平餅も焼き立てをいただける風味ぜっぴんだ。
抹茶とおいしいお菓子が出る和紙で作られた土産民芸品も見所
和紙のふっくら感があるウサギなどがかわいい。



豆吉本店
もう驚きは土間がピッカピカ
うそじゃなくとおりから見ただけでもきらきら光ってる、何か塗っているのかと入ってみると丁寧に掃除ですよ。
ぴかぴかのわけよく、合唱作りの家の柱など糠で毎日こすって拭くとぴかぴかとかいいますね、あれなんですって。
でも土間ですよ足で歩くところこの店の姿勢がわかるとゆうもの。
豆を売っているのですがきっとおいしいでしょうね。
素晴らしい店でした。
とおりから細い通路奥の裏庭から柔らかな光と共に覗く緑の庭見事でした。



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町並みの道路は昭和41年頃までは未舗装の土路で、雨が降ると川のようになり歩きにくく大変でした。そのあとコンクリート舗装がされ所々に石畳が残る程度でした。

平成元年からフィールド博物館事業の一環として2年かけて現在の馬籠宿の石畳が
できあがりました。
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馬篭は中山道の宿場町として大いに栄えヒノキの切り出しや蕎麦なども有名。
木曾ひのきは特に有名であり現在民芸様にいろんな品がつくられています。
散策は沢山のお店をのぞきながら五平餅など地の食品を味わいながらゆったりと上れることが馬篭散策の醍醐味です。


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この写真は下の入り口石畳から上る道です
中央自動車道でここまで車が入れます
石畳を上り始めると左側に水車小屋がみえます水が流れその当時の雰囲気があります。
数件のみやげ物民芸品を売る店もあり楽しみながら石畳を歩くことができる。
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但馬屋の名前の由来は先祖が現在の兵庫県、但馬の国の出身だからだそうです
宿の前には狸の剥製が置かれています、当時使われたであろう、第八車が立てかけてあるのが店の目印にもなります。
現在も囲炉裏が残る宿として旅人をもてなしています。
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昔の土蔵を改造して昔の姿を生かしながら茶房をしている”土蔵”店の雰囲気は明るくコーヒーがとてもおいしい。
山小屋風のランプが数個天井からぶら下がりとても店の雰囲気も良い。
また隣の民芸品の店も同じ経営者であり素敵なみやげ物を見ることができる。
ちょっとレトロな感じの茶房是非お入りください。
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木曽の民芸品・銘菓などの土産物が一堂に揃り、品揃えの豊富なお店です。
ここ、木曾の山はヒノキの産地、みやげ物にヒノキの皮で作られた柔らかなはがきなどもあり実際に使えるそうですお。
馬込の郵便局これもレトロなのですがそこから本当に郵送できるそうです。
ヒノキの香りがお届け先に届くいいですね。
また昔ながらの民芸品、藁で作った子馬(春駒)がとても有名です。
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ちょっと愛知県犬山市:明治村がある市を紹介します

犬山城の東にある有楽苑には、国宝茶室如庵、重要文化財旧正伝院書院、古図により復元された元庵、新しく建てられた弘庵などがあり、静かなたたずまいをみせています。
如庵は、茶の湯の創世期に尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽斎が建てた茶室で、昭和11年に国宝の指定をうけた茶道文化史上貴重な遺構です。京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵とともに、現存する国宝茶席3名席の1つです。
織田有楽斎は信長の実弟として天文16年(1547)に生まれました。波瀾に富んだ人生を送った彼は有楽の生涯を写すがごとく茶室如庵は各地を点々としましたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地に移築され、「有楽苑」と名付けられました。

またリトルワールド名前のとおり世界の生活文化家などを広く楽しめ世界の食事など食べ物も楽しめます

また、モンキーセンター、こちらの猿たちはこの時期寒さ対策のため毎日焼き芋をセンターで焼いてもらっています。
とても大きな施設で一日たのしめます


観光の目的としてまず見ていただきたいのが重要文化財指定:犬山城です。
素晴らしい、昔ながらの城であり昔そのままの姿を残している

二階に上がる階段は暗く細く急であり、昔の姿を残す

作りは質素だが実践用の城として残っている。
天守閣から望む犬山市は見事なたたづまいを見せて平野が広がっている。

などなど、犬山市には沢山の観光名所を抱えた市なのです
中でもこの紹介する明治村は有名で、実在した有名な建造物を保存公開している意義がある。


敷地面積相当広く一日では回れません
敷地内は一丁目二丁目といわれ格、町ごとに区分けされておりまわりやすい。
ここをぜひととずれてほしい・・・・・どこを見ても懐かしい明治にであえます。





天主堂壁際のランプとても雰囲気があり素晴らしい
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メサイア近くの壁に設置されている聖人のたっている部分の枠
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別室へのドアだけど雰囲気が異なって見えるから色彩は不思議だ
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