□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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利休時代を生き抜いた心とその人間関係
人を愛し茶を愛し、揺るがぬ心で生き抜く・・・・・・。奥底に秘めたこころとは?



抹茶チーズデザート
末尾にデザートレシピの作り方を記載します、お子様とご一緒にお作りくださいきっとよろこばれます。




堺の豪商の跡取りとして生まれた利休は幼少時から将来を見据えた風格を備えるためあらゆる帝王学のようなものをみにつけたといわれる。
人となりを磨き心を磨く努力また多方面においても品格ある行動と発想を磨き、利休自ら作り上げた、品格と人柄は後に茶の湯を通じ侘びさびを育て確立したと思います。

人が一生を生きるためにすること
それはまたとても難しくその人本人が気がつかないと絶対なしえないものでもありそうです。
利休は自分にも厳しかった、弟子たちにも規律厳しさを実行したと伝えられておりますが、自らを律詩ないと茶の湯を極めその頂点に立つためには必要な心構えがたくさんあっただろうと推察できる。

利休は戦国時代の名のある大名たちと茶の湯を交え交流ができる、では織田信長との関係はよき関係との説があります。

では、後の豊臣秀吉”秀吉”との関係はどうであったろうか・・・・・・・・?
少しずつ利休の心を蝕む・・・・・・・そんなこともあったようだ。
人間上に立てば立つほど謙虚さが必要となるものだけれど、かなしいな~~~、秀吉目がくらむかな?
いろいろな映像書物をみても、晩年はやりすぎの感もゆがめなさそうだ。

一父親としてなら理解しえるが、天下人であるからゆえに評価も厳しく出るのだろうか。


利休と秀吉の蜜月は茶の湯の最盛期となった「北野大茶湯」をピークとして、徐々に歯車が噛み合わなくっていく。
秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。
これは信長でさえやらなかったことだ。
前にも記載したことですが・・・・
堺とゆう町は境商人たちの自治区であり商人たちの結束で統治していたくいきです、その周囲の壕を埋めてしまうなどと暴挙はあの感情の激しかった信長でさえしなかったことです。
堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく思った。

1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ即日処刑される。
この件は歴史的にも確かであり書物にも残されている、あまりの秀吉の暴挙に驚かされる事件だろう。

利休は、嘆き悲しんだといわれるが、茶の湯に関しても、秀吉が愛した派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。
秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

対立の日は重なりて・・・・
利休と秀吉基本的心のありようがかみ合わない二人、いつかは大きな問題へと、発展する危険が起きるであろう事は、わかっていたことかもしれない。

これから大事件へと勃発することが起こる・・

そして翌1591年1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と利休は平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。
他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
このときも秀吉は利休に茶碗に関してあれこれ詰め寄ったといわれるが、平然と利休は話したといわれる、茶人心穏やかに乱すことなく平然と返答する利休に秀吉、内心心穏やかでなくしかし処処の面々の前、それなりの対応はしたと伝え聞く。

9日後の22日温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。
秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。
利休は最大の後ろ盾をなくした。
秀吉の弟・秀長彼は秀吉が、足軽時代から何か兄秀吉を支えてきた功労者でもある。
秀吉もさすが秀長の、言葉には一目置くほどだった人物であり、秀吉の弟・秀長を失ったとゆうと、誰も秀吉に提言・苦言を呈するものがいなくなったと同じであるl。
また北の政所ネネさまも苦言はしっかりと提言した人物であり、こちらは後の徳川家康も一目置かれる人柄であったと伝え聞く。
これからの秀吉はわがままし放題となりえる条件がそろったことにもなる・・・・

それから1ヵ月後の2月、利休は突然秀吉から「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」と命令を受ける。
利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。
大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。
秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリと分からせようと思っていた。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(ねね)か母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。
だが、利休はこれを断った。
「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはずだ。
秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになる…。利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。

この事件はゆうめいだけど、まず最初は誤れば許すしかし上下関係はしっかり自分が上と、誇張したかっただけの傲慢振りが見えるl。
利休は茶の湯にふれ、人となりを磨きそれなりの人物になっていたからこそそれを曲げてまで、権力にゆうがまま屈することはできなかったのだろう、このことにおいても真に茶人そのひととなりがわかるのです。


利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達し爆発した。
利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。

新しく架け替える前の一条橋
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新しく架け替えた橋
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それでも誤りにこない利休に秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。
織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そしてこの日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。
利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は切腹して侘びよとの命令だった。

なんと天下人ともあろうものが傲慢慈悲のかけらもない・・・・・・。
私は実に悔しくあの利休のような人材を人生半ばで失うことは本当に大きな損失であったと思います。

このとき有名な伝記に利休は介添えに来た武士に茶を立て、一服してからゆっくりおもむろに自分から腹を切りはてたといいます。

享年69歳。利休の首は長く晒されたと記載があります。
苦労日とでもあった秀吉人生を生き抜くすべを学んだはずの天下人が残した人生ただひとつの大きな汚点秀吉はこの事件を残りの人生をかけてつぐなったといわれる。

豪華な茶室はつかわず、侘びさびの世界に入りそれを愛しまた自分からそのような茶室で茶をたてあいしたといわれる。

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き長男秀頼を思いつつ人生の終焉を迎えた。
其の最後の秀吉の心意去来したものはいったい何だったろうか~~
①茶茶、淀君への思いだったろうか・・・・
②残して行く夫人ねねのことだろうか・・・・
③まだ自分を尊敬しない人物がいることをくやしがったろうか・・・・
④残していく幼い秀頼のことだろうか・・・
⑤自分が思うままに動かした兄弟たちの侘びだろうか・・・・
私はそんなことなどでなくやっぱり利休と話をしたと思う。
死の瀬戸際において思い描き話をしたのは利休ではないかと私は推察している。人間実際死に直面するとやはり去来するものは一点の許されない汚点だったろうかと思う。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。
こういった人生わずかな後悔の念を見て取れる行動が物語っていると思える。

さらに1615年。
大坂夏の陣の戦火は堺の街を焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。

このとき冬の陣・および夏の陣。
徳川家康は秀頼を上がらせて実質どのような人物かを見定めた。
其の対面でとるに足らぬ人物なら殺す事までは考えず諸大名扱いでいいと考えていたと聞きます、実際にあった秀頼の感想はあまりにも利発であり人望を集めるそのような優れた人材だったと見たらしい。

それゆえに秀頼は短い人生をおわることとなった。
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話は変わり利休の切腹後・・・

利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。
秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南したが、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。(この時代、茶をたてるのも命がけだ)
この戦国武士が横行する時代にあり、静かなる茶人が権力を持ち始めると戦国武将たりとて、其の権力力の及ぶことを恐れたといえる。

ここに私が愛する古田織部も切腹して果てることに・・・・・・・私いわく・嘆かわしく悲しい時代だろうか。


利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。
徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休の子孫は、大徳寺にいた孫の千宗旦が家を再興し、宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、

武者小路千家官休庵
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三男・宗佐が『表千家不審庵』を、(表千家資料より)
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四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。


利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

ここに戦国の世を生き抜いた武人と茶人の人生の幕引きとなる。
互いに何かを愛し志を抱き前進しつつ苦悩の多き時代を生き抜いた賢人たちに私は現代から残されたものを見聞きして尊敬の念と業績の偉大さにいまさらに関心と心ときめき書物を見聞きするものです。
戦国の時代において生きた人々の思いを知りそれを後世に残すべく働くのも今の現存する人類がやらなければならないことでありそれも使命だと痛感する。
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※小堀遠州、秀吉亡き後家康に用いられたのがこの人。またすばらしき庵など庭園など残しております。上
記残り記載と一緒に交えお伝えできればと思います。




抹茶チーズデザート

■材料

抹茶 ・小さじ 1
クリームチーズ ・ 80 g
砂糖 ・小さじ 2
プレーンヨーグルト ・大さじ 1
バニラアイス ・ 1 パック (200g)
ゆで小豆 (缶) ・大さじ 2
イチゴジャム ・小さじ 2

①抹茶チーズのクリームチーズ、砂糖をボウルに入れて柔らかく練り混ぜる。
②抹茶を茶こしにゆっくりと通しながら加える。
③つぎにプレーンヨーグルトをゆっくりと確かめるように見ながら加えよく混ぜ合わせる。
④器にバニラアイスクリームを盛り、抹茶チーズ、ゆで小豆、イチゴジャムを盛り合わせ、クッキーを添える。
⑤最後にデザートの上にミントの葉を一枚添えると風味がとてもいいですよ。












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