□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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時代を生きた古田織部の葛藤と苦悩

「利休の侘び茶」に対して「織部の武家茶」と称され戦国の世を生きた茶人・・


末尾に抹茶デザート”抹茶スフレの作り方を記載します
簡単でおいしく喜ばれること請け合いです・・・・・・ぜひ!作ってみてください



古田織部その人・・・・美濃の国、現在の本巣郡本巣町に生まれた。
父は初め勘阿弥といい、後に還俗し秀吉に仕えた古田重定であり茶の湯の達人であった。・・・・・・


織部の幼名は不明であるが、文献に登場する初名は景安といわれたそうです。
後、左介、古左、従五位下織部正重然と数回改名しています。
通称名は「古織」である。

茶人としての古田織部自画像(書籍引用)
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武将としての古田織部(書籍引用)
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小堀遠州の父小堀新介正次が茶人であったように、遠州と同様、織部は父から茶の道を学び成長したと思われる。
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。
秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。
このとき家康は徳川幕府を世襲とすることで早く秀忠を将軍にすえた。歴史が書いてあるとおりだと思います。

しかし利休と同じく、茶人、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。

古田織部最終的には“夏の陣”のあと切腹を命じられ、家財全て没収、一族全てに処罰という厳しい結果となる。
しかし、織部の最期は「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに自邸で切腹した。
その見事さに茶人仲間は魂を静かに追悼したといわれる。
あれだけの人材をこともあっさりと切り捨てる当時の権力の使い方の情けなさ今も情けなく思える。

何とも男らしい男“古田織部”… 最期の最期まで興に生きた  男・・・・・・茶人とて男だと評したい。


利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。
徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休は詫び茶・古田織部は武士茶それぞれに詫びありさびありの世界だったろう。

利休の茶の湯は400年後の現代まで残り今や世界各国の千家の茶室で多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

利休死すとも詫びさびは残れり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


古田織部亡き後綺麗さびといわれる茶道の小堀遠州が指南を勤める。


小堀遠州作ちゃわん(利休は詫び茶・織部は武士茶・遠州は綺麗茶でした。
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小堀遠州が後に作った庭と庵滋賀県安土、教林坊
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まず古田織部について詳しく紐解いていこうと思います。
大雑把には上に記載したとおりがストーリーです。


武勲をたてたのか、この年、織部は、摂津の国茨木の城主、中川清兵衛尉清秀の妹「せん」を正妻に迎えています。
褒章として山城国久世荘の代官となり、摂津の国東倉垣内西園郷に300貫匁の領地を与えられています。

千利休と古田織部とのつながりが生まれたと思われるのは、信長が死んだ本能寺の変の後と言われる。
中川氏と一緒に明智光秀の軍を討伐したことから利休と知り合ったといえそうだ。

本能寺の変以後時代と歴史は大きく変わった、埋もれるはずの人が大きく世に羽ばたいた時期でもあります。

その数年後武田勝頼をせめたおしその後、大阪城に新築した秀吉の茶室で茶会が催される。
千利休、今井宗久、津田宗及の3名が宗匠として開催された茶会の連客の一人として織部の名が記されている。 
このころの織部は、茶人としては、まだ認められていなかったようである。

このころの古田織部はまだまだ茶人としては認められた存在でなくまだまだ武将の名前が先立っていたといえる。
しかしこの時期から五年後、4月秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰いだときに織部も同席した。
だいぶ茶人としての織部が顔をのぞかせはじめたといえそう。

秀吉、利休を追放。2月28日利休、秀吉の命により自害。
秀吉の追放令をうけて京都不審庵を出、船で淀川を下る利休を見送ったのは、織部と細川忠興だけであった。
利休死後、織部は茶道を受け継ぎ、織部独特の茶道文化を築き上げていく。
秀吉は「利休の茶は町人の茶である。町人茶をば武家風、大名風に改革せよ」と織部に命じた。

このとき古田織部は何を感じていたのだろうか。
私なりに解説してみると師・千利休を自害させたのも秀吉で、いま町人茶でない作風を作れと命じているのも同じ秀吉、きっと古田織部何とこの世ははかないものか、自害を命じたこの人の命に従わざる得ない自分がなんと惨めなことか・・・・・・・・・・・・・とおもうのですが、織部はどうかんじたのだろう。


その翌年には秀吉は朝鮮へ出兵する、織部は御伽衆の一人として秀吉に茶を指南する。
織部は後備衆として名護屋の本営に従う。
朝鮮から連れ帰った陶工を中心に唐津焼を指導。

古田織部が焼いた織部焼き(へうげものといわれる)
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このあたりから秀吉と織部の関係はいっそう蜜になっていきます。
戦乱も一時的に治まり、織部は京都伏見にいて、全国諸大名に茶道を指南する。
当時の地位としては各大名に茶を指南するのはそれなりに位もあがったといえる。
しかし1958年8月、秀吉逝去。
織部は秀吉死後、山城35000石を重広に譲り隠居する。
織部55歳、伏見の自邸で茶三昧の生活に入る。

しかし世の中とは騒がしいもの、隠遁した織部を静かにはさせてくれなかった。
関が原の戦いで徳川方が勝利。
その後天下を平定し、3年後徳川幕府が始まる。
織部は、家康から10000石を与えられる。この頃から、茶の湯の名人として天下に名声をはせる。
諸大名は、その多くが織部の門人となる。
このころには昔の利休の権力に似たものを保持し始める。
言い換えれば段々命も危ぶまれだすころでしょう。
とかく権力が先行すると人からねたまれるものでしょうに。

織部邸の茶会に徳川秀忠がまねかれた。織部63歳。
この年、織部は多くの茶会を催している。
茶会には今焼きの角皿、壷、唐津焼茶碗、今焼き羽鳥の香合が使われた。

伏見の自邸での茶会は、頻繁に催され訪れる客も大名や神宗湛などの豪商が多い、茶会では黒織部の茶入れ、黒茶碗、備前の水指など、唐物中心だった茶器から、自らが手がけた窯所のものが多くなっていく。

このあたりの茶器の扱いも亡き利休のやり方にだんだんに始めてきた。
またこの時期あたりに江戸の秀忠に茶の指南を頼まれ江戸に赴くことになる、また秀忠の娘千代姫が細川家に嫁ぐときも付き添っていったと書物に記載されている。
やっと織部が江戸から帰ってきたのが織部70歳のころ。

ここで織部人生をかけた大事件が勃発する
8月茶会に「国家安康」の鐘銘を草した清韓和尚をもてなしたため、家康の怒りに触れる。
10月家康、大阪冬の陣に駿府を出陣。織部は名古屋まで迎えに行った。

しかしここで思い出してみよう。
この戦国の時代茶をたてるも命がけと利休じがいのおり古田織部が言った通りその言葉に今従うようなことが自分の身起ころうとしている。
まさにいいがかりであろう。
あまりの織部の権力が増したため疎まれただけであろうに、世の中とはまさに無情だとおもう。
くぐるただそれだけのことで切腹を命じる何と切ないことか。

しかし先にも書いたとおり

「かくなるうえは 申し開きも見苦し」

まさに武人であり茶人見事なさいごだったといわれる。
遺骸は大徳寺玉林庵に葬られた。
家康は織部一族を処罰するとともに家財全てを没収し、織部の全てを抹殺した。
大名・町民はこの難の及ぶのを恐れ、織部の意匠となる茶道具を処分した。
家康が織部の全国大名に対する影響力をいかに恐れていたかが、「織部の抹殺」を徹底して行ったことから分かるような気がする。
織部の娘は一人あり、浪人鈴木左馬助の妻となっている。
ただし古田織部の家系は娘せんによって脈々とうけつがれたといわれます。


こうして長き人生武士権力者に翻弄された人生を送る二人の茶人どんな目で今の世界をみているだろうか。
ただ茶を愛しただけ、周囲が持ち上げただけ権力は権力者から授かったもの、当人たちは静かに一服の茶を楽しみたかっただけではないだろうか、それが茶道に精通する侘びさびの世界ではないだろうか。
私はこの戦国の時代において茶人たる道はどこにあったのだろうか????

「織部の抹殺」からわかるように、権力を持って世を治めるものは権力により滅ぼされる因果応報のことわりあり。
わたしはそうおもう。
歴史的に多くの人物が歴史に権力にほおむられている、平家物語ではないですがまさに、諸行無常だといえそうだ。




抹茶スフレの作り方

suhure
(材料)
ホワイトチョコレート 90g
牛乳 90g
抹茶 12g
薄力粉 20g
卵白 4個分
卵黄 2個分
グラニュー糖 36g

【下準備】
抹茶と薄力粉はだまを作らないためにふるっておきます。
ホワイトチョコはすぐ解けやすくするために包丁で細かく刻みます。
オーブンは150℃に余熱であたためておきます。
型の底部分に敷紙をおく。

牛乳を温めて細かく刻んだホワイトチョコを少しずつ入れて溶かす。
卵黄にグラニュー糖の半量を入れてよく混ぜ、1を少しずつ入れて混ぜ合わせる。
ふるいにかけた粉類を入れてよく混ぜ合わせる。
卵白にグラニュー糖の残りを入れてしっかりとしたメレンゲを作る。(少しずつ入れること)
2にメレンゲの1/3量を入れて泡だて器で混ぜてなじませる。
ゴムベラで残りのメレンゲを2回くらいに分けて混ぜる。
お湯を張った天板で150℃45~50分焼く。
(型の周りはアルミホイルでカバーしてね♪)
焼きあがったら型のまま冷まして冷蔵庫で冷やす。

これで、完成少し温かみがあるくらいが一番食べごろのおいしさかと思います是非つくってみてください。

アレンジいろいろ

■粒あんをはさんでもおいしくいただけます。
■ホイップクリームをはさんだりホイップの中にフルーツを小さくきって挟んでもおいしくいただけそう。
■日本茶に会う感じには、粒あんがいいかもしれません。
■お子様向きにはワッフルのようにホイップクリームにイチゴのスライスをはさんだりその上に小さなミントを飾ると彩りも鮮やかで喜ばれそうですよ。







テーマ:何気ない日常の写真 - ジャンル:写真



















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