□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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戦国時代をを生き抜いたのは、武将だけではなかった・・・・・茶人もまた!!

小堀遠州:竜安寺方丈庭園に見る四つの石庭の謎!!および秘話。
末尾記載にて抹茶デザート ”抹茶のパウンドケーキ”  の作り方を照会します。柔らかでとてもおいしいです。ぜひお子様とご一緒に作られたりすると喜ばれる一品になりますお試しください。


時代に翻弄され権力に翻弄されたのは武士だけでなく代々茶人もそうであった。

今回記載する小堀遠州は武士であり茶人。
また見事なまでの庭園を残している、その中で宇宙を現したといわれる竜安寺:方丈石庭の謎まずこれを解いてみたいと思います。

幅25メートル、奥行き10メートルの細長い敷地に15個の石が5・2・3・2・3と配置した「代表的な枯山水の庭園で禅の美を極めた空間」まさに、小宇宙をあらわしたものと言われている。

1.刻印の謎  石庭の裏に刻まれた…。
作庭は室町時代と推定されていますが、作者は、「相阿弥説」他諸説があります。庭石の裏に刻まれた「小太郎・口二郎」の刻印さえも作者と判定するには憶測の粋をでません。

2.作庭の謎  大小15個の石の構成はどういうことなのか?
わずか75坪の白砂の空間に、大小15個の石を配置。一般には「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」と呼ばれる。大海や雲海に浮かぶ島々や高峰、「心」の字の配石、また小宇宙をあらわしたものと言われる説もある。  

3.遠近の謎  右奥に向かって塀が低くなるように作られ、
「遠近の謎」一見水平に見える石庭ですが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで排水を考慮した工夫が施されている。
また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。
ここにもまた錯覚を利用した演出が見られる。視覚的に奥行きを感じさせるために、土塀の高さを計算し、遠近法を利用した高度な設計手法といえる。
この石庭の設計で計算されている遠近法がこの数百年前に確立したといえそうだがまさにすばらしいものです。
75坪の庭がまさに広く雄大に感じますから見ていて心安らぐ要因ともいえます。


4.土塀の謎 
「土塀の謎」モノトーンの空間を囲む、高さ1m80㎝の土塀。
油土塀と称するこれもまた、石庭を傑作とならしめる重要な構成要素ですが、この油土塀とは菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られており、白砂からの照り返し防止や、長い風雪、環境変化に絶えぬく、非常に堅牢な作りに仕上がっている。
石庭面は、外側の地面から80㎝ほど高い場所に位置する。これも強固さを保つための工法上の工夫によるという。


これだけのすばらしい技術を駆使して作られた方丈石庭はまさに現代にもつうじる建築の推移を保っていたものと思われる。

戦国の世から千利休・古田織部と茶道を支えた賢人たちが自害に追い込まれた。
その背景には権力者が権力を保持するための画策もあったろう~~~。
力に翻弄された時代を通り過ぎた茶人が残したものとは何だろうか・・・・・・・・。
現在裏千家・表千家が利休の子供たちにより脈々と受け継がれている、確かにそこには離宮が確立した侘びさびの世界を見ることができる。

しかし茶道としての姿は残せても真に利休の伝えたかった心の奥底に去来した真髄とはほんとに残せたのだろうかと疑問に思う。
実際私も茶道を習い現在も春と秋の茶会には招かれる、そのときによく利休や織部のイメージが浮かんでくることがある、ふと上を見ると床の間にさりげなく一輪花が飾られどこの茶室もにじり口は、利休の設定した狭い入り口となって形は伝えられている。

さて!!今回は利休・織部亡き後の茶道界を支えた人物小堀遠州を記載します。
織部と同じく遠州も父が茶道にかかわりを持っておりました。

小堀遠州自画像
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小堀流”綺麗さび・茶の花”
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小堀遠州はその本名を小堀正一といい、滋賀県坂田郡南郷里村小堀(現在の長浜市)で生まれたといわれています。
(1608)に駿府城建設にあたっての作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれようになったようです。

遠州は、江戸幕府の作事奉行として当時の桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園に才能を発揮、また大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園です。
南禅寺金地院は、私も撮影で数回出かけ拝見している庭です。
緻密に計算された庭にて見事な自然をつくっています。
また安土にある教林坊の庵、ここの庭はまさに見事四季をいっぱい庭いっぱいあつめたとでもいいますか、余すところなく日本の和・美・わびさびを持って自然をうけいれている、まさにそんな気がします。
特色としては周囲を竹林で囲っているまさに私たちが癒しと思える日本の美がそこに存在していました。

また茶道を古田織部に学び、三大茶人と呼ばれ、遠州流茶道の創始者となり、三代将軍家光の茶道師範を務めたように多才の持ち主であったようです。
こうしてみると徳川家康は自害前千利休を指南とし、徳川秀忠二代将軍は、古田織部を指南とした。徳川家光三台将軍は、小堀遠州、それぞれ戦国時代に当時の権力者に使えたといえる。
ゆえに、時代と権力に翻弄された茶人たちともいえる。

小堀遠州は茶道も見事ながら当時の権力者の指南役を務めていましたが、また造園に深く関心を抱き、当時国外の宣教師に庭園についておそわっています。
今まではわが国は日本の美わびさびの世界の質素ながら美をかもしだす庭園が主流でした宣教師たちにより海外に見るまた日本と違った庭園の作園法も学んだといわれます。

今回はこの小堀遠州があの京都の龍安寺の石庭を作った人物ではないかと推理した宮元健次著の「龍安寺石庭を推理する」という興味ある本を読みますます、龍安寺の石庭を造った人物が小堀遠州ではないかと思ようになりました。
これまでいろいろな研究者がこの龍安寺の石庭を造った作者を調査していますが、未だ決定的な結論が出ていないようです。

龍安寺は、1975年に英国のエリザベス女王が訪れ、石庭の庭を絶賛したことから世界中にこの話しが広まったとされています。
それまでは日に数十人しか訪れなかった静かな寺が、一夜にして世界的に有名になり今では日に1000人も訪れることがあるような名所になってしまったようです。
しかし実際は京都の禅寺の中で妙心寺は当時のいわゆる京都五山(天龍、相国、建仁、東福、万寿寺)に列さず、禅寺の中でも一番低い地位に甘んじていたことから、妙心寺の末寺である龍安寺の地位も押して知るべしであったようです。

龍安寺の石庭(数年前に撮影した写真です)

枯山水真正面・縁側よりの風景
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縁側正面より翌年の撮影写真
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正面庭園より少し右に目を落とした山水(宇宙を表現しているといわれる)ryou3


■ぐるっと庭園に大回りしました話をもどします

徳川三代将軍家光の茶道指南を命ぜられた小堀遠州、
徳川家光に小堀遠州を推挙したのは、黒衣の宰相とも呼ばれた京都南禅寺の金地院崇伝だと言われています。
古田織部が徳川秀忠の指南役だった、小堀遠州は徳川家光の茶道指南役でした。
とくに、品川・東海禅寺における徳川家光への献茶は、小堀遠州が幕藩体制における茶道権威の象徴として、万人に認識された出来事でした。
このあたりで小堀遠州の実力とゆうか少しずつ威光がめだちはじめるのです。


小堀遠州の好みを「きれいさび」と表現しますが、古田織部が不定型で非対称の美を求めたのに対し、小堀遠州は均整がとれた都会的で洗練された美を表現しました。
茶道に忠孝という封建道徳を取り入れ、幕藩体制の茶道観として受け入れられていくことになります。
そして、大名たちは、こぞって小堀遠州に入門します。

小堀遠州の茶道を習わねば茶道にあらずとまでの世間の風潮があったようにいわれています。
四代将軍・徳川家綱の頃になると、すでに小堀遠州は亡くなっていたものの、大名茶道と言えば遠州流が一大勢力となっていました。
そんな中で、徳川家綱の後見役で叔父の保科正之が師事していた片桐石州の茶湯が勢力を伸ばします。
どんな時代でも権力は脈々と移行しうつりゆく、絶えることがないようです。


★小堀遠州秘話
壮年を迎え、茶道においても円熟期に入った遠州は、織部なき後の天下一の巨匠と自他共に認める存在となり、茶の湯指南役として将軍の信任も厚かった。
しかし、すべてが順調ではなく、経済的な危機もあった。
理由は不明ですが遠州が公金一万両を横領それが人に知られることとなったそうです。そのとき酒井忠勝をはじめ、遠州に批判的であった細川忠興までが遠州を失うことを惜しみ公金返済の資金を提供したという。
それだけ利休・古田織部亡き後の茶道界において、まさに小堀遠州の存在が各大名たちにはおおきかったのだろう。




小堀遠州亡き後
保科正之が柳営茶道として石州流を紹介していった意図は、勢力が大きくなり過ぎた小堀遠州の系統に対抗するためとも言われ、やがて片桐石州は徳川家綱の茶道指南役となり、徳川家綱に点茶を献上するまでになります。

こうして時代背景とともに茶道を眺めていくと将軍が変わり指南役が変わる、また茶道の心得が少しかわり、何が好まれて言ったかがよくわかります。
茶道の詫びさび利休が確立した茶道も指南する茶人により右へ左へと揺らぐものだと感心するばかり。
時代と権力に翻弄されそれを操るこの時代にため息が出そうです。


小堀遠州は茶道は小堀流をつくりまた造園庭園つくりに見識があり見事な庭園を作り上げたじんぶつでもあります。
例をあげると、二条城二の丸や江戸城の庭園・名古屋城の庭園・松山城の庭園、特に遠州が備中国奉行のときつくったのが頼久寺庭園であり、国指定の「名勝」として知られている。




■抹茶のパウンドケーキの作り方keki

<材料>
バター・・・・・・・・・・・・・・・・100g
砂糖・・・・・・・・・・・・・・・・・・90g
卵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100g
※Mサイズなら2個がいいとおもいます

ブランデー・・・・・・・・・・・・・・・5g
薄力粉・・・・・・・・・・・・・・・120g
ベーキングパウダー・・・・・・・・・2g
抹茶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3g
牛乳・・・・・・・・・・・・・・・・・・30g

■作りかた

■ 下準備です
バター・卵は常温に戻しておいてください。
粉類(薄力粉・ベーキングパウダー)は合わせてだまになっていないようにふるっておく。
抹茶は、よく濾しておく。(さらさらにしておいてください)
型に薄くバターを塗り強力粉をはたいておく。
オーブンを170℃にあたためておく。(少し早い目に余熱にて暖めてください)


■ 生地作りです
常温に戻したバターをクリーム上に練る。
砂糖を加え白っぽくふんわりした状態になるまでよく混ぜる(粉がだまにならないよう注意)

①全卵を少量ずつ数回にわけ加え、その都度ハンドミキサーでしっかりと混ぜ合わせます。
しっかり粉を混ぜ合わせていないと作ったときのケーキの生地が荒くなります滑らかにするためにしっかり混ぜてくださいね。

②粉を1/3加え軽く混ぜて、ブランデーを加えます。
ブランデーを少し加えると焼き上がりがとても香ばしくおいしくなります

③粉を加え、ゴムベラでさっくりと混ぜ合わせます。
軽く混ぜてくださいね。

④粉っぽさが少し残るところで、牛乳を加え混ぜる。
さっと混ぜ合わせますが牛乳は少しずつゆっくり入れること。

⑤生地を少量別のボウルに入れ、抹茶を加えよく混ぜ合わせる。さらに生地の1/3を入れて混ぜ合わせる。

⑥2つの生地を1つのボウルに入れて、3回ほど混ぜる。混ぜすぎるとマーブルじゃなくなるよ。
ここでの混ぜ方はさっと簡単に生地の色が縞模様になるようにしっかり色が解けるくらい混ぜると、出来上がりの風合いを損ねます。

⑦型に生地を流しこみ空気抜きをする。170℃のオーブンで約40分焼く。
余熱で暖めておく。

⑧竹串を刺してドロッとした物がついてこなければ焼き上がり。
竹串を突き刺して取り出したとき粉の生地が生の状態がついてこないようなら中までしっかり火がとおっております。
あまり焼き過ぎないように見ていてくださいね。

ポイント
あまり生地を練りすぎないこと
最初にオーブンを加熱しておくこと
作成してから数日2日位してからのほうが生地が落ち着いて味もしっかりしてきます
一度に食べきれないときはラップしておくとい~2週間は持ちます、電子レンジで暖めていただいてください

■出来上がりのケーキにホワイトクリームを乗せてもおいしいです。
■また濃い目の日本茶には上に小豆を少し乗せていただいても格好のおやつになります。



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