□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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茶の湯の虜になった男たち。
茶の湯は歴史を変えたそれは芸術か、いなや!――



中ほどに ”一服タイム”管理者作:俳画を掲載。
少しでも詫びさびを感じ取りたいと思います。

 


戦国時代以来、多くの権力者を虜にしてきた茶の湯。家康、信長、秀吉、利休、宗久、宗二、遠州、織部・・・など、個性ゆたかな人物群像をつらぬく男の生き方を探り、限られた空間と茶道具が生み出す特異な茶の湯の美学に迫る。

茶事は人生をも変えてしまうほど権力者たちに重宝された、しかし本来茶事の持つ芸術美学といえるものはそうではなかったはず。
質素な詫びさびを愛しいつくしみ心の安らぎを得るためのもの、精神修養のためのもの教養としての茶事であったはず。

歴史と権力者と茶人おのおの限られた空間が生み出す宇宙の中で、おのおのにこだわりを持ち、その美学の違いが、ある時は政治的対立の要因にさえなった。
いつの世も最先端の文化として存在し、権力者と強く切り結んでいた茶の湯を通して、歴史の本流からは覗けない、個性豊かな茶人たちのなまの姿と心情が見えてくるのもまた後世から見えてくる茶事の世界でもある。



ちょっと一休み写真タイム  管理者作:俳画
私なりの詫びさびを俳画に求めました。

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■今回は茶人その人に迫りたいと思います


茶道は、室町時代の東山文化の中心、将軍足利義政の茶道師範であった村田珠光にはじまり、千利休で完成されたといわれます。
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では完成された茶道とは何だったのでしょうか。
また茶人はなぜ切腹を命ぜられたのでしょうかその真相は。

先駆者・村田珠光は、形式的な書院飾りの法式に仏道修行を取り入れ、茶の道を成立させました。また珠光は、茶道に侘びの感覚を取り入れました。
珠光の言葉に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」というのがありますが、当時の唐物中心のなかで、国焼のもつ素朴な美しさに注目しました。

しかし、村田珠光の取り入れた侘びは、華やかさの対極として侘びでした。
まだ、侘び自体としての内実を備えたものではありませんでした。
まだまだ初歩的な侘びとさびの形態ですがその本質は後の利休、織部。石州の基本となるものです。

★私は現代の茶道における形そのものは村田珠光 ありてのものだと大いに評価するものです。利休がそぎ落とし対をおなじとせず、織部が対を同じとし綺麗さびとする、まさに時代と共に移り変わる茶道そのものを見せてくれますね。

その初歩の形態に利休は侘びさびの自体に向かい合おうとしました。侘びの要点は、「正直につつしみ深くおごらぬ様」である、と述べています。
また、侘びとは、不完全美だともいっています。
もう、そこには、華やかな形式美に対する意識はさほど見られないように思われます。
こうして利休はまったく飾らないそぎ落としたその美を愛したのです。
飾らぬ美質素な美底に侘びを見出した。

★また、私の感情を移入させますが、村田珠光から形が作られかけてその形を利休が茶室と茶碗なども共に侘びとさびのまったく飾らない、左右同一でないそういった不規則であり不必要を極限までそぎ落とすことに力を入れたそこで得た詫びさびがだんだんその姿を表せてきたのだとおもっています。現代の裏千家表千家の流派においても基本は変わらず茶道の道からは独立した流儀になっているそれはおのおのが確立して行った茶道そのものの形態だとおもう。
裏も表も同じく利休の形態を重んじ詫びさびを重んずる流儀であるといえる。
いつの世までも語り継がれ受け継がれていくべき利休の真髄が脈々と広がっていくのです。


千利休によって完成された 茶道とは一体何だったのでしょうか。

茶道は、現代でも日本文化の象徴のように言われます。
今日のように、グローバリゼーションが進む世界にあっても、茶道は、世界に通用する文化して世界から認められています。
これは、茶道が、当時の国際都市堺ではぐくまれ、完成されたことと無縁ではないと考えられます。
利休が完成した茶道とは、利休が見つけた日本の美であったのではないでしょうか。
利休以降、四百年にもわたって茶の湯が日本人の心とらえて離さないのは、茶道が、日本文化の本質に触れる部分を持っているからではないでしょうか。

千利休は、草庵茶道、すなわち侘び茶道の完成者とされています。
目立たない調和のとれた美を、追求したといわれます。
日本の茶道は日本文化を、欧米文化や中国文化と比べたときの際立った特色であるといえるのではないでしょうか。

千利休は、茶道の完成者であると同時に、日本文化の再発見者であったと位置付けることができると思われます。
利休亡き今も脈々と利休流の茶道は、広く受け継がれていきます。

まず、利休七哲といわれる武士階級へと受け継がれます。
織田有楽、細川三斎は、忠実に利休茶道を継承しようとしました。
町人の茶道を当時の武士達が受け容れたのは、単に太閤秀吉の権威に従おうとしたことだけではないように思われます。


秀吉は、利休茶道の本質を理解していなかったように思われます。
茶頭を選ぶ際の逸話は、秀吉が津田宗及と利休の違いを理解していなかったことを窺わせます。
利休が晩年になってますます日本の美を追求する姿勢を強めるに従い、二人の価値観はどんどん離れていったように思われます。

★本質が異なる二人の茶道おのずと開いていったと思われます。また秀吉においても当時置かれていた立場背景にも大きく茶道への心が揺らいだものと考えます。
黄金の茶室に見られるように黄金文化を好んだ秀吉と竹の花入を愛した千利休とは結局相容れなかったのでしょう。

★(黄金の茶室に関しては当時の武将からもさまざまなそしりを受けています。)しかし秀吉は黄金の茶室をなぜ作ったかとゆうと権力を誇示する必要があったのだろうと私は考えます。
年をとりますますわが子の幼さに心痛める日々ではなかったかと思います。
残していくわが子に権力をそのまま渡したいと願ったのも真実だろうとおもう。


利休流の茶道は、一人の鬼子を生み出します。古田織部です。
利休の弟子の中で古田織部は、際立った特質を見せています。
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古田織部の茶道を、どのように捉えたらよいのでしょうか。
古田織部は、動中に美を捉え、織部の茶道は、武人的な本質から生じたものだとされています。
また、織部は、目につく美をあらゆる形において表現しようと努め、その好みは武家風の雄大な力強いものであったとされています。
 
★目立たない調和のとれた美を求めた利休の茶道とはあまりにも違う織部の茶道は、どのように利休の茶道につながるでしょうか。おそらく、日本の美を追及しようするという利休茶道の本質を、古田織部ほど感覚的に理解していた弟子は他にいなかったように思われます。
利休の美を理解した上で確立したのが古田織部の織部流茶道ではなかったのだろうか武士茶道といわれますがその美の根源はやはり利休の詫びさびから出発しております。


★しかし武士茶道は利休のような繊細な感覚を持ち合わせていなかった織部は、自分流のやり方で日本の美を追求しようとしたのでしょう。今日でもなお、織部好みの茶道具がわれわれを日本人の心をとらえて離さないのは、それゆえではないでしょうか
、織部の持つ特質としては武士であり茶人であり、陶芸家でもある多面的要素が加わる茶道武士としての雄大な茶道いくつもの局面を持った織部の茶道への心の入れ方はまたおのずと利休の詫びさび、極限までそぎ落とした形と相反するように見えるのも納得がいく気がする。
私はどちらかと言えば利休が大好きでその愛した確立した詫びさびの極限の美が大好きです。
だからといって、織部の古田織部としての茶道の美しさも非評価するものではありません。
特に古田織部が作り出す織部焼きの魅了されるものです。
逆に双方のよき面を理解し茶道を比べあいそのお互いの美に触れるとき心癒されるのです。

テーマ:写真と詩・言葉など - ジャンル:写真



















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