□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
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鈴鹿の関宿といわれたのは・・・・・・・どうしてなのか!!

徳川家康による宿駅制度の実施により、慶長六年(1601)、東海道の四十七番目の宿駅となったことにより、それ以後重要な拠点として東西交通を担ってきた。

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現在の町並みの基本構造は、天正年間(1573〜92)に関盛信が付近の道路を改修し、 新所と木崎の間に町(中町)をとり立ててできたものと考えられています。
この中町の町立てにより町並みは東にのび、現在のような規模になったのです。

▲市制資料館からの引用写真
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▲関宿本陣からの大名の旅立ち浮世絵より引用です
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上記引用写真から見て取れるのは、東西交通の便がよいことと、人の流れが多く重要な幹線であったことが伺える西から東へ東から西への要所として要的役割も果たしていたと推察します。


慶長6年(1601)の徳川家康の宿駅制度化により、関宿も東海道の正式な宿駅として整備され、 伊勢別街道及び大和街道との分岐点という立地条件により繁栄していきました。

天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、家数632戸、人口1,942人、 本陣2、脇本陣2、旅籠屋42となっており、東海道屈指の宿場であったことを物語っています。

また、宿場には多くの人々が密集して生活していたため、ひとたび火事となると大火となって大きな被害をだしました。
町にはこうした大火に備え、防火のための施設も設けられていました。
宿場の各所にあった「火除松林」「土居」などは、防火帯として設けられたものです。
また、「水溜」は用水池や防火用水として設けられたものと考えられます。
現在も随所にこの、「水溜」が設置されています。

当時の町屋の特徴としては
部屋は表からミセ・ナカノマ・オクノマ(ザシキ)と呼ばれますが、 四室になる場合はオクノマからブツマが独立して1部屋となります。
シモミセは家族の居室・帳場などとして使われ、旅籠屋に多く見られます。

ミセの上には「厨子(つし)」という低い二階があります。
現在も中二階といった形で残っています。

現在こうした中二階を見ることがあまりない私たちには、どこか風情があり住んでみたいそんな感じのとらわれるものでした。

旅籠などを除けば二階が座敷になることは少なく、物置として薪・柴などを蓄えておく場所でした。
明治後期から大正以降の町屋では、二階が発達して座敷を設ける例が一般的になります。

現在も随所に昔ながらの長屋形式で残る古い民家にはたいてい中二階があるようです。



■新所(しんじょ)の町並み
新所は関宿の西側に位置します。
地蔵院の門前となる新所東側は、中町と一体の家並みを形成し、中二階の町家が多く、主屋の横に庭を設けて高塀をめぐらす質の高い町家もみられます。

一方新所西側は、その大半が小規模な平屋で仕舞屋風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みです。新所の特色としては各町家の格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が比較的よく残っています。

■北裏(きたうら)の町並み
関宿には1社・10ヶ寺がありますが、地蔵院を除きすべて街道の北側にあります。
街道から北側に入る小路の奥には、各寺院の門や本堂の屋根をみることができます。

北裏は中町から木崎の町並みの北側に位置し、寺院や神社の境内がならんでいます。街道からかけ離れた落ち着いたたたずまいで、樹木などの自然も多くあります。

■ 中町(なかまち)の町並み
中町は関宿の中央に位置し、西から一番町から六番町までにわかれています。本陣・脇本陣・問屋などがおかれ、主だった旅籠が集中した宿場の中心で、特色ある町屋が残っています。町家は比較的建ちの高い大規模なものが多く、二階壁面も塗籠めて虫籠窓をあけたり、全面に手摺りを設けて開放するものが多く、意匠的により華やかです。

中町から西を見ると、美しい家並みとともに、地蔵院本堂の屋根と鈴鹿の山々が正面に見えます。関宿の最も美しい町並み景観のひとつです。


■木崎(こざき)の町並み
木崎は関宿の東側に位置します。町家は平屋ないし中二階の比較的建ちの低いものが多く、 二階壁面は真壁にしたものが普通です。
中町に比べその意匠はより簡素ですが、伝統的な町並み景観がよく維持されています。




★本会は宿場の中ほどに位置する寺 "地蔵院" について詳しく調べてみました。

関町関宿は細長い地形をしており西の追分東の追分とに分かれていて約1.8キロの長さにまちっが栄えていたといわれる。
その西と東の追分の中央辺りに地蔵院がある。
この寺にはいろいろな古事もあり面白いお話しが聞けた。
天井には、仏典を題材に元禄時代の絵師狩野永敬が、十年の歳月をかけて描いた一七四枚の天井画が 描かれています。



■地蔵院【国重要文化財】


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関地蔵院は、関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 、という俗謡で名高い、関地蔵が祀られている寺である 天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられる関宿きっての名刹です。
関宿のほぼ中央に位置し、旧東海道に面して開放的な境内をもちます。
近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集めました。 境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています。


天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。
この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われています。
境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。


◎地蔵堂に伝わる古い話
●関の地蔵と一休和尚
関宿にある地蔵院のお地蔵さんは、首に麻の布切れを巻いているのが特徴的。
実は、この布にはこんな言い伝えが・・・。


むかし、有名な一休和尚が東海道を旅していたそうな。地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通 りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。
しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ 間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。
これに怒った村人たちは別 の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。
あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。

それ以後、関のお地蔵さんは麻の布を首に巻いているということです。
地蔵堂にまつわる古事です。




撮影に出かけたときは愛染堂 の前に見事な古木の桜が咲いていました。

●愛染堂前の桜

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■地蔵院鐘突き堂

鐘楼の鐘は、知行付の鐘と呼ばれ、寛文十一年(1671)に建立された。
鐘楼の近くには、明治天皇御行在所の石碑が建っていた。

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テーマ:ある日の風景や景色 - ジャンル:写真



















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