□ 自然を慈しみ美を愛するPhotoLife /  BGM-G線上のアリア
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

旅人が行き交う町並み、そこで日々繰り広げたであろう旅籠の生業・・・・。

耐えることなく日々行きかう人に暫しの宿、旅する人にとってはどれだけ旅籠の明かりが恋しいものであったのか遠い道のりをつかれきった足を引きずり歩く人には安らぎの、それ以上の明かりに見えたに違いない。

昔は今のようにタクシーなどない時代ただひたすら歩く歩く歩く、辛い旅であったにちがいないだろう。

◎この歴史資料館になっている ”旅籠:玉屋” は当時から関に止まるなら玉屋とほか二件が特に有名だったと歴史書に記載がありました。
uki5

◎旅籠の入り口の土間すぐ横に二階へあがる階段があり土間の後ろには帳場があったようです。
uki6


◎ここで、この写真に面白い実話。
私はめがねをしていないとはっきりとゆうか見にくいのですが、この玄関から建物中ほどの薄暗い展示スペースの帳場にいる男の方を見かけたのでこんにちわと声をかけてしまった。
じっくり見てあ!!人形だ。
そのときはほんとに恥ずかしく一瞬周囲を見渡しました。
でもほの薄暗いと本と間違います実物と・・・・・・多分、挨拶した人ほかにもいたかも。


uki10



帳場の後ろの部屋は家族の部屋らしくなっていたようです。
裏側の中庭をはさみ家族用の部屋の割り振りがあったのをみかけたことがある。


◎ここ関宿の会津屋は昔旅籠をやっていたとお聞きしました。
今は食事何処、蕎麦やおこわを食べることができます。
その名残に屋根の上のうだつに会津屋と書かれた漆喰壁昔の繁栄を物語ります。
uki4
この会津屋は西の追分と東の追分の中央にあり前に道路を挟んで有名な地蔵堂があり、今もそうですが当時も旅人がたちよるメッカだったと思います。
今も地蔵堂には観光客が耐えないですね。


★では、旅籠とはどんな宿なのでしょうかここでは各街道にあった一般的庶民が泊まる宿について記載してみます。
(浮世絵を参考にお話させていただきます)

「はたご」という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠の事でした。
時代劇などを見ているとしっかりとした木の策に馬をつないで水を飲ませたりえさをやっている映像をみることがあります。それが、旅人の食糧等を入れる器の意味にさらに食事を提供する宿屋を旅籠とさすようになえいました。
江戸時代には宿場ごとに多くの旅籠があって泊まり客で賑わいました。

時代が進み蒸気機関車が走るころになる明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになり、現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかありません。

しかし、旧街道を旅するときは旅籠ほどそれに似つかわしい宿はないと思います。
今も昔の宿場撥に時折本当に営業している旅籠があります、現代の雑踏を忘れこうした昔を振り返ることができるそんな旅籠に一度とまってみたいと思います。
ふと、歴史を振り返るきっかけになったり懐かしいものに触れ合えたりほっとするたびになりそうですね。

ほんとうに歴史的に価値のある文化財がたんなる旧跡としてあるのではなく、現在でも宿泊できる生きている形で存在しているのはとても大切なことだと思います。
旧街道を巡る人だけでなく、日本の文化を愛する人にはぜひ泊まってもらいたいと考えています。


江戸時代の庶民の宿には、朝夕の食事を提供する旅籠と、宿泊客が薪代を払って自炊する木賃宿がありました。
江戸初期には木賃宿が主流で、旅籠が一般化するのは、江戸中期頃からといわれています。

■一般的な旅籠
uki2


江戸の初期旅に出るといっても本当に命をかけて旅をするものでした。
いつ盗賊に襲われるかわからないいつ病で息耐えるかわからないそんな状態でただひたすら目的地まで山山を越え歩いたのですからどれだけ大変だったか容易に想像できます。


当時は現在のように宿泊を予約することがなかったので、宿場の旅籠は客を確保するために、各種の講(寺社への参拝などの目的で作られた団体)の定宿になるように努力し、また路上で旅人に呼びかける客引きが盛んでした。

映画で見かける夕刻の旅籠宿をいっぱいにしようと女中が見せの前で客の旅人を捕まえる画像みかけますね。
あんな時代だったのでしょう。


旅籠の前の路上で、客引きの女(留女)が旅人を強引に引き止めています。歌川広重の「東海道五十三次」の御油の絵にも同様の光景が見られます。
夕刻はどこの宿場でも見られた光景です。
uki1


はたごに入ると一番に女中が洗い桶を持ってきます。
たらいで足をすすぐ客と、客の荷物を持つ女中がいて面倒をみてくれます。
それから部屋に案内してくれて、荷物の柳行李(やなぎごうり)と風呂敷包みを座敷に運びます。きやはん)も洗い、座敷へ通ると女中に茶を持ってこさせます。
旅籠での第一は足を洗うことでした。

今では道路事情もよく、まず歩いても足が汚れるなどそんなことはありえないですがこの当時わらじなのですから当然泥もつけば汚れもします、どこでもまず家に上がるのは、洗い桶に水を汲むことから始まるのです。


一般の客が泊まる旅籠の宿での夕食を見ると、酒の肴に白板かまぼこ(白い上等のかまぼこ)、漬しょうが、車海老、紫蘇の実、赤みその吸物などがあげられています。
この場合の食事はまだ品数がありだされたものも結構よい食事と言えそうです。
一般はご飯と一膳の味噌汁、それに小魚と漬物ちょっとした煮物が魚の代わりにつくとかのそんな質素なものでした。

そりゃ~~金持ちが頼めばまた贅沢な食事もでたじだいでしょうね。

一般には大体、一汁二菜程度のものと思われます。
旅籠の食事は宿泊代の上中下によって、それなりの料理を出していたようです。

お金を切り詰めて旅をする庶民にとって旅籠では実に切り詰めないといけなかったのです。
野宿以外で布団で眠れるそれだけでありがたい時代でした。


■こんな話が伝わっています。

猿廻しで生計をたてている兄弟この食事の場面も随分質素に見えます
足の低い膳(足付折敷)の上には箸と飯椀とおかずの皿があり、膳の右の浅い鉢には長い箸が見えますから取り分け用のおかずのようです。
傍には大きな飯櫃(めしびつ)がありますが、飯櫃は、めしつぎ、おひつ、おはちなどとも呼ばれ、自動炊飯器の出現以前には、炊いたご飯はすぐこのおはちに移し、食生活の必需品でした。

庶民の日常の食事について『守貞謾稿』(1853)にはおよそ次のようにあります。
「江戸では朝に飯を炊いて味噌汁とともに食べ、昼は冷飯で野菜か魚肉などの一皿を添え、夕飯は茶漬けに香の物を添える。京坂では昼に飯を炊き、煮物あるいは魚類または味噌汁など二、三種を添え、朝飯と夕飯には冷飯に茶、香の物を添える。」これが庶民の普通の食事のようです。
uki3

◎庶民の食事善
uki7
見てのとおりあまり贅沢とはいいがたいですね。
これがまた豪商などになると、大臣並なのでしょうが、一般市民はささやかなものですね。

膳の左にある土瓶は、現在でも見馴れたもので、土瓶は蔓(つる)、急須は把手(とって)の違いはありますが、両方とも煎茶を入れて適温の湯を加え、茶汁を茶碗に注ぐ淹(い)れ方です。
江戸時代には、やかんや土瓶を火にかけて湯をわかし、その中へ煎茶を入れて煮出す方法も行われていました。
絵には薪が燃えている火鉢がありますから、土瓶で煮出したお茶でしょうか。

昔の品物も忘れられている時勢ですがここに出てくる土瓶はいまもありますね。
まったけの土瓶蒸しに使われたりなじみがあるとおもいます。

ここにも少し記載してありますが ”おひつ” とは窯で一度炊いたご飯を木の桶に入れておくものです。
まず今の若者ではまったく見たこともないと思います、最近は炊飯器が主流で保存間でしておりますからわからないですね。
よく観光にある古民家などの施設ではあえて ”おひつ” ”めしびつ”などを作り方を教えてくれて実演をしたりしています。
昔をしのぶにはよい題材になるとおもいます。

現代の生活と似た一面もありますが物資の少ない時代者を大切につかっていたのでしょう。
何しろ当時はあたり和えの一汁一菜これだけでも食べれるのは幸せだったのだろうと推測します。

当時の旅人は宿でおにぎりを作ってもらったりすることもあるそうです。
いったん宿を出ると次の宿まで順調にいかれればいいのですが何があるかわからない、そうなるとやはり水とおにぎりは命の元なのです。
それと味噌、よく昔から戦いに出向く武士が味噌や塩を持っていったと聞きます。・
体のため健康に欠かせない成分だったのでしょう。

ここ関宿も東西のほぼ真ん中に位置し旅人が往来する要でもありましたから始終旅の泊り客があっただろうと推定します。





テーマ:何気ない日常の写真 - ジャンル:写真



















管理者にだけ表示を許可する



| HOME |

Design by mi104c.
Copyright © 2017 四季彩花, All rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。